SNSに蔓延る言論封殺、言論弾圧とネットVS既存マスメディアの拮抗
こんにちは。aikokuken-ryuji🐶です。
皆様、佳いお正月をお過ごしになられましたか?(*^^*)
元旦の初詣を済ませた後は、家族、友人、恋人、親戚など諸々の楽しい新春のひとときに浸られましたか?
子供たちは、河原で凧上げ、駒回し、羽根つきなど昔からの健全なお正月遊びに興じましたか?
残念ながら、近年の子供たちは皆が皆、そのような遊びをするとは限らなくなってしまいましたね💧
普段は、離れて暮らしていて顔を合わさない親戚、親族の方々が年に一度、一堂に会し話に花を咲かせながら酒盛り🍶✨🍻🎶なんて風景もお正月ならではですね🎵
でも、休み明けで体調を崩される方も多いとききますので、しっかりコンディションを整え、スタートをきっていきましょう!
今年もまだ始まったばかり。
皆様、本年はたくさんの素敵な時間をお過ごしいただきますよう、若輩ながら心より祈願申し上げます。🙏✨
締めたのではありませんよ!ブログはこれからです(≧∀≦)💦💦
今回のブログは、SNS=いわゆるネットの在り方について、、そしてネットに相対するテレビなどの既存マスメディアとの仁義なき戦いwについて書いていきたいと思います。
まず前口上といたしまして......昨年の11月頃から、約10ヶ月間やめていたFacebookを再開しまして、当初は本ブログや情報の共有などを目的として利用するのに再開したのですが、TwitterなどのネタをもとにFacebookにシェアしたり、フレンド・フォロワーさんの記事をシェアしたりと段々以前の興奮がよみがえってきて(なんじゃソラ 笑💧)、つい調子に乗って公開投稿(=Facebook利用者でなくても閲覧できる設定)で在日韓国人、支那人、北朝鮮、反日左翼(パヨクw)などについての記事を掲載、またはシェアしまくっていた矢先、ある朝、突然のログイン不可!😵💦
スマホの画面が切り替わり、パスワードをいれると、なんと!このような表示が...😨
(※⬆名前の部分だけ、プライバシー保護の為ボカさせていただきます🙇)
Facebook社の文言によると、「Facebook規定違反の投稿を見つけた為に、削除しました」との事。
しかし、厄介なのはここから。
次に出た表示が、な!なんと!!
えっ!?(; ゜Д゜) うそやん!💦
マジかー😩 またかー😝💦 瞬間的にそう思いました。
ここで明らかにしておきますが、僕はFacebookを始めて今年で五年目になります。
今、使っているアカウントは新しく作り直したもので、以前のアカウントは何故かログインできなくなってしまったので敢えなく...といった感じです。
このアカウント一時停止処分は、今回が初めてではなく、前のアカウントから何度も喰らっていました💥
Facebookをされていない方は、こちらのリンクをご参考いただきたいと存じます。
⬇⬇【Facebook使い方徹底ガイド Facebookアカウントが停止された!原因や再開のための解除方法!】
Facebookアカウントが停止された!原因や再開のための解除方法! - Facebook使い方徹底ガイド
Facebookのアカウント一時停止最初は、一回目が三日間と短期ですが、二回目、三回目と同様にアカウント停止通告が重なると...七日間から30日、酷くなると三ヶ月アカウント停止処分となり、その期間中はFacebookを閲覧する事はできても、投稿、いいね、コメント等一切できなくなってしまうのです!😱😱😨😨
僕の場合は、最高で一週間かそこらでした。
ここでFacebookのアカウント停止についての本題ですが、本当にFacebook規定に違反した行為や投稿をしたのならばアカウント停止宣告を受けてもかまわないと思うでしょうが、実はこの多くが外国人ヘイト(特に中国人、韓国人を対象とした)の内容を記事にした愛国ユーザーが受けているという事。
実際、僕のFacebookのフレンド・フォロワーさんも何度もこのような憂き目に遭っています。😢
だから、その処方箋としていくつものアカウントを持ってらっしゃる方も中にはおられます。
そういう不当な扱いは、Facebookに限ってだけではありません。
Twitterにもそういう事があります。
Twitterでは主に一時停止ではなく、アカウント凍結というかたちで一気にアカウント自体が使えなくなってしまう恐ろしい目に遭ってしまうのです😫💧
そうなると、もう新しく作り直すしか術はありません。本当に迷惑千万な話ですよね(-_-#)
最近......というか、昨年の話になるのですが、ネット上でそのような記事を書いたりupしたりしている中で、多くのネット著名人らがサイバー攻撃なる妨害を受けていました。
代表的な例を挙げると、アメーバブログの『な○しこりん』さんや掲示板式サイトで有名な『保守速報』さんなども在日だか左翼だかの妨害を受け、FacebookやTwitterでも、ほれについて抗議するような記事、ツイートが頻繁にみられました。
ついこの間も、日本第一党の党首、桜井誠氏もTwitterのアカウントを凍結されるという許しがたい仕打ちをされました💢💢💢
⬇⬇【桜井誠 Twitterに言論統制】YouTubeさんから。
【桜井誠】twitterに言論統制『排除されちゃいました』 - YouTube
一体、何がいけないというのでしょうか!?
我々は、在日朝鮮人、支那人によるふとどきな行為、通名を駆使した残虐な犯罪、日本人をヘイトし自分たちが返されると「外国人差別だ!」「排外主義だ!」と騒ぎ人権を盾に騒ぎだす......このような在日による悪行を白日の下に晒し日本を取り戻すために、日本を守るために当然の事を訴えているだけ。
なのに何故、民族批判、人権無視、規定違反のコンテンツなどと逆に糾弾されなければならないのか。
ひとつの可能性として、これはよく愛国ネットユーザーの間で囁かれている事ですが、Facebook社の中に在日朝鮮人、或いは支那人がいるのではないか!? という事。
下記リンクにてご紹介させていただきます。
⬇⬇【2016/10/04 FB(フェイスブック)が情報統制を開始 私たちが考えている以上に日本は韓国に侵食されている】ネット保守運動さんから。
ネット保守運動: 2016/10/04 拡散希望:FB(フェイスブック)が情報統制を開始
正しくは、Facebook日本支社のセキュリティをまかされている『F-Secure』という組織が韓国系だということですね。
なるほど、だから韓国に関する記事は削除されるわけか......臭いものには蓋をしろ ってか??
などと納得している場合ではありませんよね😅
まさに臭いものには蓋という概念、真実を覆い隠し、当たり障りの無い良い情報だけを表に出し持て囃すなどといったトンデモナイ状況が許されています。
このような惨憺たる我が国になってしまったのは、やはり遡ること70数年前......大東亜戦争敗戦後のGHQ占領政策に於ける言論統制へと行き着くでしょう。
現代の日本が狂った方向に誘われていった原因のすべては、まさにここにあったと認めざるをえません。
手紙は検閲され、電話は盗聴され、何もかもがWGIPに統制されていたOccupied Japan(占領下の日本)は、未だに当時の影響を引きずったままになっています。
テレビ等でも、偏った内容のニュース番組や、捏造された歴史をまるで真実を語るように平然と嘘を流すNHKをはじめ、既存メディアの腐敗ぶりは見るに耐えません。
戦後の風潮を引き継いでいるからなのか、比較的左派は常道、右派・右翼寄りは異常という滑稽な構図がマスメディアの中で、できてしまっています。
これに対抗するにはどうすればいいのか❗❔
同じ情報を得る手段としては、ネットの方が既存のメディアよりはまだマシだと僕は考えます。
勿論、ネットでのすべての情報が正しいというわけではありません。
地上波はほとんどがフェイクニュース、捏造偏向報道だらけなのに対し、ネットでは正しい情報、間違った情報どちらも分け隔てなく認識する事ができるのが、信憑性の高い点です。
大切なのは、情報を共有すべきユーザー、つまり我々の判断いかんにかかっているのです。
何も難しい事では無いと思います。自分の生まれ育った国、両親、兄弟を愛する心、同じ日本人を愛する気持ちさえ持ち合わせていれば、自然と答えは見つかるのだと。
僕はそう信じています。
いつの日か、ネット社会が常識化し、既存マスメディアを葬り去り、正しい認識が人々の目に覚醒の光を与えることを。
⬇⬇【桜井誠氏のTVメディアVSネット(一般視聴者)の闘い宣言!】YouTubeさんから。
【10年保存版】桜井誠氏のTVメディア vs ネット(一般視聴者)の闘い宣言! - YouTube
ブログを読んで下さっているFacebookユーザー、Twitterユーザーの方々。
いくら投稿コンテンツが不適切だと削除され、アカウント停止を喰らっても、いくら通報されアカウント凍結をされても、どうか諦めないで下さい!!
そこで諦めてしまうと、都合の悪い事を公にされたくない黒い闇が増長するばかり。
明るみにされなければいけない事実、真実が包み隠され陽の光を浴びないで錆び付いていくばかり。
我々のすべき事は、その黒い闇に果敢に斬り込んでいくこと。正論という名の鋭利なナイフを突き刺し、少しずつ闇を切り拓いていくことなのだと思います。
数ある障壁を乗り越えてこそ、栄光は必ず我々を待っています!!
どうか、数多のネットユーザーの方々にお願い致します!!
諦めないで❗ たびたびアカウントを停止されても削除されても、決して諦めないで下さい❗🙏🙏💦💦
どうか、お願い致します。
僕も諦めません。絶対に言論統制、弾圧、封殺などには負けたくありません。
共に頑張りましょう(`^´)ゞ
最後になりましたが、二冊の本を紹介させていただき、今回のテーマを終わらせていただきます。
前者は、上記にも書きました、我が国に於ける言論統制のきっかけとなったWGIPによる占領下の検閲などについて書かれた『閉された言語空間』⭐江藤淳著。
後者は、平成28年5月に奇しくも成立されてしまったヘイトスピーチ規制法について、有識者があらゆる観点からこの悪法を批判した内容の『「ヘイトスピーチ法」は日本人差別の悪法だ』⭐小山常実著。
今回も、拙い文章ではありましたが、日本の危機も交えてネットの拡がりを望む、日本を憂える一日本人としての立場で熱っぽく書かせていただいたつもりです。
Facebook愛国ユーザーの皆様、アカウント停止解除後にまたお会いしましょう😂✌www
ありがとうございました🙇
@2678/ 1/ 10/ 草稿
平成30年✨✨2018年の夜明け🎌🎌(御挨拶🎵)
賀正❗🎍🌸🌹✨
新年明けまして、おめでとうございます!!!(*^O^*)
旧年中は、大変お世話になりました。
新しい年を迎えまして、心構えも新たに、様々なテーマに取り組みつつ、今年も政治に、時事に、趣味にと多趣多様なブログを書かせていただこうと思っております。✌
さて、今年の干支ですが、なんと❗
『戌年』🐶🐶🐶✨
aikokuken-ryuji🐶の年じゃ、あ~りませんか❗❔wwwwwwwww
僕自身、年男となりますので新年から余計に気合いが入っております(≧▽≦)/
という事で、平成30年、2018年に掲げる言葉として、『不撓不屈』(ふとう・ふくつ)を自身のテーマ及び目標にさせていただきました。
この言葉の意味は、『志が堅くどんな困難にあってもくじけないこと。また、そのさまであり、「不撓」は、たわまない、「不屈」は、屈しないの意』なのです。
昨年は、トランプ氏が米大統領に就任、韓国の朴槿恵大統領が退き、反日根性丸出しの文在寅が職を継ぎ、日本では安保法案、共謀罪、テロ等準備罪などの成立で安倍自民党が支持率を巻き返し、同時にパヨク界隈、野党内部(主に民進党w)の崩壊とバカさ加減が露呈し、国民の多くが覚醒する機会をえたことと思います。
さらに北朝鮮有事の問題が遂に頭をもたげ、あのキューバ危機にも似た緊迫が、世界情勢を取り巻き、国内でも憲法改正論、北朝鮮拉致問題について、いっそう世論が賑わったものの、まだまだ反日勢力は至るところで脈打ち、我が国は危機感に苛まれています。
また、天皇陛下譲位についても話題が噴出し、皇室の明暗が広く国民に不安を掻き立て、一体日本はどうなってしまうのだろう......我々は一体どう戦っていけば、日本を守るにはどういう意識を持たねばならないのだろう......と、自分のすべき事について目的論を見失ってしまいがちになりますよね。
しかし、それを打破するには、日々自分は日本が、この生まれ育った国が大好きで、愛する心を常に保ち続けていれば自ずと答えは見いだせるものと思います。
自分がこの先どうすべきか は、その時その時でやれる事をやっていくこと。
つまり、『百折不撓(ひゃくせつふとう)』=(何度失敗しても、くじけずに挑戦し続けること。
「百折」は百回折れる、「不撓」は、たわまないの意。百回折れてもたわまないがもとの意)の精神を抱き前進するのみ。
僕も、今年は当たり年なので、ガンガン当たって砕けろ!な意気込みでやっていきたいと思いますwww
本年も、aikokuken-ryuji🐶のブログを、よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m
皆様のご健康、ご健勝を祈願し、共に佳い年にしていきましょう❗\(^o^)/ 🙋🙏🙇
⬇⬇【唱歌「お正月・一月一日」(歌詞)】YouTubeさんから。
@2678/ 1/ 1/ 草稿
平成29年(2017年)総まとめ🎌
こんにちは🎵 aikokuken-ryuji🐶です。
寒いなか、日々お仕事、家事、育児、勉強にお疲れ様でございます❗🙇
いよいよ今年ももう残り僅かとなってしまいましたね。
皆様、本年度はaikokuken-ryuji🐶のブログをたくさんご愛顧いただきまして、本当にありがとうございました!!(*^O^*)
拙い文章で、まことに申し訳ございませんでした💧
前回のブログでもお伝えしましたが、今回のブログ更新を以て、本年度は、ひとまず締め括らせていただきます。
不定期の更新にも拘わらず、たくさんの方々に読んでいただき、また、コメントを寄せていただき、Twitter、Facebook等でもご愛顧をいただきました事、深く頭を垂れ、感謝をさせていただきたく存じます。🙇
来年度も、不定期の更新となりますが、何卒ひとつよろしくお願い申し上げます。
さて、皆様にとって2017年はどんな年だったでしょうか......。
一年過ぎるのもあっという間やなー なんかあったかなぁ?w と思う方や、いろいろあったわなー と感慨深く振り返る方もいらっしゃるかと思います。
僕は、昨年の11月に新しい職場に勤めていたのですが、今年5月に今の職場に変わり、今で半年と一ヶ月が経ちました。
その間、SNSでもTwitterを中心にネットでの活動を続けてまいりましたが、リアルでの活動は、昨年ほど行えてなかった事に少しばかり悔やむ気持ちも抱懐しておる次第です。
昨年は、地元大阪や東京、横浜などでデモ行進や街宣に参加させていただいたりもしていましたが、今年になって仕事の都合などでうまく日程が合わず、参加する機会を蔑ろにしてしまいました😞
なので、来年は仕事も安定すると思いますので、間をみて、そのようなリアルの活動にも精を出していきたいと考えております。
勿論、ブログの方も継続していきたい方向ですので、よろしくお願い致します。😆
さて、一年の総まとめですので、これといったブログテーマをあげる事もないのですが、挨拶程度でこのまま しれっ と終わるのも味気無いのでw 少しだけお話をさせていただきます。
年末になると、あらゆる方面でいわゆる「訃報」を耳にしますね。
また、年の瀬になって今年一年間の間で逝去された著名な方々の事を振り返ったりなど、テレビ等でよく見かけます。
それが、自分の身内であった場合、お正月の迎え方も例年とは違ってくるのですね。
わかりやすいところで言えば、元旦に「お目出度う」と言ったり言われたりできないとか、初詣等、神社仏閣にしばらくはお詣りするのを控えるとか、さしずめそれは仏教的なニュアンスで捉えるところからきているのだと思います。
古来、日本では家族や親族に、弔事(ちょうじ)があった場合に、故人を偲び哀悼の意を表します。
家族、親族が亡くなるという事に直面したら、当然深い悲しみと辛い気持ちが溢れてきます。
それらを乗り越える一定の期間の事を『服忌(ぶっき)』と呼びます。
詳しくは下記リンクをご参照下さい。
⬇⬇【知っておきたい豆知識 服忌について】神道青年全国協議会さんから。
http://www.shinseikyo.net/knowledge01.php
知っておきたい豆知識 | 服忌について | 神道青年全国協議会
『服忌』の『服』とは、故人への哀悼の気持ちを表す期間として【喪中】
『忌』とは、故人の祀りに専念する期間として【忌中】といわれます。
この『喪中』と『忌中』をすなわち【服忌】というのです。
『服忌』の期間は地域によって多少の違いはありますが、故人を偲ぶ大切な期間であり、また、多くの方が【喪中】と【忌中】を同じ意味、用途、同義語で使われていますが、本来は違う意味の言葉です。
これに関して、古くは奈良時代の『養老律令(ようろうりつりょう)』、江戸時代の『服忌令(ぶっきりょう)』などに記述が見られますが、現在の服忌期間の基となったものは少し後の明治7年(1874年)、太政官布告(だいじょうかんふこく)の服忌令といわれています。
⬇⬇【喪中の期間の範囲!マナーと一緒に知っておこう】私の気になること さんから。
喪中の期間の範囲!マナーと一緒に知っておこう | 私の気になること
昔でこそ、そのような故人を弔う事も法律として定められ、厳かに死というものに向き合ってきましたが、現在では服忌に関する法律は存在せず単なる習慣・習俗として残っています。
戦後、日本は戦争に敗れ、我が国の天皇陛下も『神』から『人間』へとされ、権威や伝統をも見失い、うわべだけの風俗、流行にその身を委ねてきた現代日本人。
短期間での戦後復興の芽は、華々しく咲き乱れ、その美しさと達成感、充実感に酔いしれ、物質的幸福を得ようとせんが為に長年日本民族の精神的支柱であった古き良き伝統文化、皇室、習慣、生活のスタイルまでもが置き去りにされ、あれよあれよというまに時代は流れ、日本や日本人そのものが変わりすぎてしまったように思えてなりません。
自殺者、孤独死の増加、いじめ、核家族化、家庭内別居、離婚、結婚しない男女、高齢者の独り住まい......。
戦後日本は、何もかもが個人主義的風潮と化してしまいました。😢
面影すら見えない変わりすぎてしまった我が国を目の当たりにして、我々は一体何を考えるべきか、何をすべきなのでしょうか。
世相に目を向けると、親が我が子を殺め、子が親を殺め、男性が女性を強姦し、若者がお年寄りを暴行する......そんな悲惨で凄惨な出来事ばかり横行しています。
政治に目を向けると、与野党双方は、愚にもつかないこじんまりした小競り合いを繰り返し、国会がマトモに機能しない中で、正しい事に邁進したいと思っている議員が少しも表面に浮き出てこれない。
また世界に目を向けると、国と国とが戦争し、幼き命が戦火にさらされ、外国に居住している日本人がいわれなき弾圧、風評被害を被り、さらに仮想敵国と見なして執拗に我が国を攻撃(口撃)してきたりしています。
かつての大戦で、自存自衛の戦争に身を投じた日本は、今また自国存亡の危機の渦中にいるのです。
その事実から目を逸らし、自らの快楽と幸福のみの為に生きているお花畑現代日本人の有り様を空の上から英霊様や先人の方々は、きっとガッカリしていることでしょう。
遣りきれず、涙さえ流しておられることでしょう。😢
自分たちの子孫は、一体何をしているんだ。こんな日本にする為に我々は命を賭けて戦ったわけじゃない。
そう嘆かれていることでしょう。
悲嘆に暮れている英霊様や先人の方々に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいなります。
しかし、このままでいけない、、美し国、日本の在りし日の姿を蘇らせるには、一人一人が声を掛け合って、学び合って、同じ志を分かち合い、どんな形でもいいから働きかける事だと思います。
口で言うのは容易いですが、たとえ何もできなくても自分自身がそういう心で相手に接する事で、自ずと周りも変わってくるのだと思います。
自分の置かれている環境に満足できない...ならば周りのせいにするのを止めて、自分自身から変えていこう❗と決起、発起すれば少しずつですが、道が開けてくるように、日本人としてのアイデンティティーを自ら体現する事こそが、かつての日本を取り戻す行動に繋がるものだと。
その直接的な行動が、デモや街宣、講演やSNSでの積極的な発信なのだとすれば、間接的な行動とは、身なり、態度、言葉遣い、礼儀礼節、義理人情など直接訴えかけるのとはまた違った形で周囲に示す事。
現代人が失った日本民族の精神を司る、世界で唯一無二の民族性を普遍的に示していけば、環境も変わるし、周りを変えることだってできる、、そのように信じています。✨
僕自身、まだまだ不勉強で礼儀礼節や義理人情を口にするには人格的に足りなさすぎるのですが、日本人として日本に生まれ、祖国をルーツを愛する心、ご先祖様、両親に感謝する心は熱いつもりですww
誰だって、何処の国の人だって、自分の国を悪い国だと卑下する必要は無いのです。
否定や批判する必要はまったく無いのです。
しかし、我が国は敗戦以来、他国による情報操作、自虐史観の刷り込み、君主を戦争犯罪人と喧伝した事による嘘捏造が心に侵食し、それを許しているままです。
自国を否定、批判するのは勿論罪ですが、それよりも罪なのは無知であること。
何も知ろうとしないこと。流れるままに流されて真実と嘘を天秤にかけようともしないことです。
その結果、嘘を信じ、多数決にほだされ、盲信(妄信)してしまう。現代日本人の最も伝播されてしまった大病が「無知蒙昧」です。
松下村塾の吉田松陰先生の格言のひとつに「志をたてるためには、人と違うことを恐れてはならない」というのがあります。
今の日本の内的危機を救うには、こういった人が多くなる事です。
個性的 とひと括りにするには意味の幅が違いすぎます。
何かを成し遂げたいと願うのならば、周囲の意見に惑わされてはいけない、大きな声を鵜呑みにし、それに流されてはいけないものだと思います。
松陰先生は、きっとそのように解釈なされたのだと考えます。
幸い、若年層、中年層を中心にネットでの情報が氾濫していて、真実がちょっとずつですが拡散され認識されてきています。👀
僕の意見としては、旧来の長いものには巻かれろ主義の既存メディアをなきものにし、ネット社会へと情報展開が移行されるのに期待をしています。
臭いものには蓋をする、都合の悪いニュースは改竄、捏造でうやむやにする、こんな馬鹿げた金儲け主義に重きを置く既存メディアは、そろそろ滅びるべきだと思っています。
知るべきは真実であり、真相。
重んじるべきは、ありのままの歴史認識と伝統文化。
これからも、様々な戦いが繰り広げられると憂慮しますが、熱い気持ちを、強い心を忘れずに、頑張っていきましょう❗共に❕ 🎌\(^o^)/🎌 日本の為に❗
⬇⬇【歌『凛として愛』】YouTubeさんから。
歌『凜として愛』 - YouTube
これにて、今年最後のブログを総まとめとして閉じさせていただきます。
一年間、読んで下さった皆様、本当にありがとうございました❗🙏🙇✨
この場をおかりしまして、深く感謝申し上げます。
来年も、aikokuken-ryuji🐶のブログをよろしくお願い致します。(*^O^*)✌
よいお年をお迎えいただきますよう、祈願させていただきます。
ありがとうございました😄🎵
@2677/ 12/ 22/ 草稿
『大は小を兼ねる』信念で大敵に打ち勝った男たちのストーリー
こんにちは。aikokuken-ryuji🐶です。
師走に入り、今年も残りあとわずか......。
思い残す事なく、最後まで突っ走っていきましょう❗
とはいえ、年末ギリギリまでお仕事でお忙しい方、29日くらいで仕事納めでゆっくりめな年末をお過ごしになられる方、様々だと思いますが、体調にお気をつけいただき、風邪等病気に苛まれませんようお過ごしいただきたいと若輩ながら、皆様のご健康を願っております。(*^^*)
さて、長い間皆様にご愛顧いただきました、aikokuken-ryuji🐶の拙ブログも、今回をいれてあと2回で2017年を締め括らせていただきます。
今回のテーマは、『大は小を兼ねる 信念で大敵に打ち勝った男たちのストーリー』と題しまして、歴史上名高い、そして勇気ある男たちによるまさに時代を変えた武勇伝について二つほどのストーリーを書かせていただきます。✨✨
まずは、コチラをご覧下さい。
⬇⬇【この漢、本物の勇者 高杉晋作の名言集 厳選】YouTubeさんから。
【この漢、本物の勇者】高杉晋作の名言集(厳選)【かつ魔王】 - YouTube
高杉晋作といえば......そう。坂本龍馬、西郷隆盛と並ぶ幕末の志士として有名ですよね。
この高杉晋作が、中心となって組織した戦闘部隊が『奇兵隊』です。
文久3年(1863年)の下関戦争の後に長州藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織されました。
この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されています。
奇兵隊は、当初、外国艦隊からの防備が主目的であったとされ、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いる黒船艦隊が江戸湾浦賀(現在の神奈川県横須賀市浦賀)にて来航、これまで鎖国を続けてきた日本に開国を求めてきた事件もあっての事からだと推察されます。
そんな奇兵隊の隊員構成はというと、戦慣れしている武士ばかりの集まりではなく、なんと身分制度にとらわれない武士階級と、農民や町人などが混合されていたそうです。
奇兵隊の中にいた農民や町人は、誰でもこの国を守りたい、この国の為に役に立ちたいという志と熱き想いが強かったという事ですね。🔥🔥
ただ、袖印による階級区別はされていて、隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居し、蘭学兵学者・大村益次郎の下で訓練に励みました。
このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍という事になります。
奇兵隊は体系的には、銃隊や砲隊などで組織され、高杉は泰平の世で、貴族化して堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされます。
高杉晋作自体、幕末という時代の趨勢の渦中にあり、上記の黒船来航によって世界の脅威に我が国が曝されようとしている時、亡国となるをなんとしてでも防がねばならない!との強い、熱い想いが燃えていたのでしょう。
⬇⬇【高杉晋作が作り上げた奇兵隊とは】ひすとりびあさんから。
この高杉晋作と奇兵隊を連想すると、思い浮かぶのが『戊辰戦争』。
時の将軍、徳川慶喜が政権を掌握していた旧幕府軍と、新たな日本の明日を切り開こうとした新政府軍との戦いです。
ここで素朴な疑問w
何故、『戊辰』という言葉が使われたかというと、これは慶応4年/明治元年の干支が戊辰(つちのえたつ・つまり辰年)であることに由来するそうです。🐲❇
おわかりいただけましたか❔😂(笑)
さて、新政府軍の勢力は、薩摩藩、長州藩、土佐藩など合わせて約5000人ほどで、これに対し旧幕府軍は約15000人。
新政府軍は旧幕府軍の半数以下でした。
しかしいざ戦いとなると、初戦となる鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍の指揮系統に不備があったため苦戦、過半数以下の兵力であった新政府軍が勝利をおさめ、結果的に王政復古を掲げた新政府による新たな時代が幕をあける事となりました。
(👆上の旗は、戊辰戦争の時に新政府軍が掲げたものです)
この戦いの一年前の慶応3年、争いを避けようとした徳川慶喜による『大政奉還』が行われましたが、結局、慶喜の思惑通りに事は運ばず、戊辰戦争が勃発しました。
シリーズ沖縄②でも書きましたが、沖縄が今日、日本国に属していられるのも、新たな時代へ足を踏み入れなければならないと思い立った先人の想いがあったからこそ『琉球処分』によって、古くからの琉球王朝の腐敗しつつあった政治の統制する場所から逃れ、一歩前に出られる事となったのです。
この高杉晋作をはじめとした明治維新の幕末の志士たちの想いも、同じだったと思います。
いくら、江戸時代が泰平の世であり、何の変哲もない暮らしを営めたとしても、それでは同じ場所に立ち留まったまま。
国として、世界の広さを知る事なく井の中の蛙状態では、国は良い方向へと向かう筈が無い......我々は日本という国に生まれたのだから、世界に向けてその存在を知らしめると共に、亜細亜のリーダーとして日本を発展的な国にしていこう! と、幕末の志士たちは考えたのだと思います。
だから、戊辰戦争勃発は、来るべくして起こったものだと。
新しいものを得るには、古いものはどうしても不要になってしまう。
捨てなければならない。でも、本当に不要なものは捨て、残すべきものは残し、新しいものと古き良きものを同時に活用できたなら、国や人々は漸く次のステップへと陽の目を見る事ができる。
高杉晋作の名言にもあったように、『百万の大群 恐るるに足らず 恐るるべきは我ら 弱き民一人一人の心なり』『苦しいという言葉だけは どんなことがあっても言わないでおこうじゃないか』
真の楽しさは、苦しみの中にあり、苦労し甲斐のある苦労をするよう心掛け、一人一人の信念が集まれば、大敵に勝つ事にもできる。
高杉晋作と奇兵隊は、時代の駒を進め、良き国になるよう尽力され、その上に今の僕らが生きているのですね。
これらの言葉を忘れず、前に進んでいきたいですね。
⬇⬇【第5週第6話戊辰戦争~敗者たちの幕末維新! CGS 倉山満】YouTubeさんから。
第5週6話戊辰戦争〜敗者たちの幕末維新!【CGS 倉山満】 - YouTube
高杉晋作についての武勇伝は、ここで一区切りつけまして、、では、もうひとつのストーリーを......✨✨。
戊辰戦争勃発から数えること36年後の1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争......すなわち『日露戦争』が勃発しました。
1895年のフランス・ドイツ・ロシアによる『三国干渉』を経、明治天皇の御英断により泣く泣く正当な権益の及ぶ領土を手離したにも拘わらず、それでもなお欧州の列強が日本に対して要求を突き付けてきた事から、明治天皇をはじめ大日本帝国軍、日本国民が『臥薪嘗胆』の言葉を胸に、ついに開戦に踏み切ったのが、日露戦争です。
帝国海軍・東郷平八郎元帥を筆頭に、秋山真之、児玉源太郎、乃木希典など一流の指揮官、軍人を中心に日本国の存亡と名誉をかけて大敵ロシアを相手に、決死の戦いを繰り広げました。
写真:上から、東郷平八郎、秋山真之、児玉源太郎、乃木希典。📷✨
一年7ヶ月にも及んだこの戦争で、多くの死傷者を出しましたが、最後には日本が日露戦争に大勝利し、それまで欧米列強に奴隷扱いされ、植民地にされ不当な扱いを受けていた亜細亜の国々に、勇気と希望を与えました。
「亜細亜のちっぽけな俺らでも、本気を出せば大きな敵に勝てる!!」
事実、この日露戦争での日本の勝利をきっかけに、各地で自国の未来の為立ち上がり、同じように勝利を勝ち取り、独立した亜細亜の国がいくつかあります。
ですが、戦いは決して楽勝 というものではなく、本当に熾烈を極めたものでありました。
二百三高地については、僕も昔、仲代達矢主演の長尺映画をビデオにて観ましたが、兵隊が銃剣で突き殺されても、銃や爆弾で蹴散らされようとも、同じように突撃を繰り返し、その粘り強さが最後には功を奏し、旅順の二百三高地のてっぺんに日章旗を掲揚するに至りました。
開戦にあたって、大日本帝国軍の軍勢30万に対し、敵国ロシアは50万。
艦に関しても(シャレではありません😅ww)日本の23万トン、戦艦6隻に対し、ロシア側は51万トン、戦艦15隻と圧倒。
先の戊辰戦争のように、兵力は歴然たるものでした。
これにより、日本はロシアに短期間のうちに大敗するであろう との喧伝が世界的に濃厚な中、戦略に戦略を重ね、大敵であるロシアを徐々に追い詰め最後には打ち負かしてしまった日本の底力。
鬨の声を上げ、大義名分と日本民族の滅亡を阻止する為、命を賭してロシアを敗った日本人の信念の結晶が見事輝き、今日の日本があるのも日露戦争での勝利があったおかげだと思わせていただきます。
⬇⬇【負けたら終わりの日露戦争 CGSねずさん 日本の歴史】YouTubeさんから。
負けたら終わりの日露戦争【CGS ねずさん 日本の歴史 10-9】 - YouTube
「皇國ノ興廃此ノ一戦二有リ」との意味を含め東郷元帥の乗艦する旗艦『三笠』にZ旗を掲げ、強大なロシアのバルチック艦隊を殲滅した大日本帝国海軍、やられてもやられても、突撃を繰り返し、ロシア軍の歩兵連隊の包囲網をくぐり抜け見事二百三高地を奪取した大日本帝国陸軍の英霊様の魂は、高杉晋作の奇兵隊、戊辰戦争で幕末維新を実現させる為に戦った英霊様の魂とともに、靖國神社に祀られています。
是非、靖國神社にお詣りいただき、我が国を未来へと足を向かせた英霊様、国の存亡を食いとどめた英霊様を偲び、感謝を捧げていただきたいと願います。🙏
余談ですが、日露戦争をテーマにした映画を二本ほど挙げておきますので、機会がありましたら是非観てみて下さいませ。m(_ _)m
今回、挙げさせていただいたふたつのストーリーは、何も単なる歴史上の事だけではありません。
現代日本でも、このような戦いは人々の知らないところで続いているのです。
これらのストーリーに続く事柄として、1970年11月25日の三島由紀夫氏の割腹自決。
先月、東京の方で毎年行われている憂国忌があったのは記憶に新しいかと存じます。
憲法にがんじがらめにされている自衛隊の決起と皇室中心の日本の伝統文化の復活を命を擲って訴えておられました。
これも戊辰戦争で、新政府が掲げた王政復古に繋がるものがあると思います。
あともうひとつは、日本第一党の党首、桜井誠氏による在日朝鮮人の反日活動に対する戦い。
反天連(反天皇制運動連絡会の略称)という、皇室・天皇陛下を否定する反日国賊集団と、桜井党首の戦いは、最初、反天連のデモ隊にカウンター抗議をする為わずか20人で反天連のデモ隊200人に対して訴えておられました。
今でこそ弱体化した反天連ですが、当時は桜井党首以下、抗議側にしてみれば大敵であった事が窺えます。
それでも信念を持って訴え続ければ、必ず道は開けるんだと信じて今でも戦いを続けておられます。
僕も含め、志を持つ日本人が声を挙げ、先人たち、英霊の方々の代弁者となって日本を良い方向へと導いていかねばならない必要に迫られているかと思います。
どんなに大きな敵が、目の前に立ち塞がろうとも、信念と志をもってすればいつの日か、必ず撃破する事ができる❗ そう信じて......。
⬇⬇【歌 命尽きるまで】YouTubeさんから。
今回も拙い文章のブログを最後まで読んで下さり、ありがとうございました。(*^^*)
感謝申し上げます。🙇
次回のブログで、2017年はひとまず最後とさせていただきます。
お体ご自愛下さり、素敵な冬の日を...😉✌🎶
@2677/ 12/ 15/ 草稿
『I Have A Dream!!』" 夢 " の実現の為に闘い、時代を変えた勇者たち...。
皆様、こんにちは。aikokuken-ryuji🐶です。
寒いなか、お疲れ様です✨
ほんま寒なりましたねぇ~~!!😖😖😖❄
僕なんぞは出勤時間が朝の6時なものなので、5時には家を出ないといけないので、通勤時が辛いです(>_<)
しかも真っ暗けやしwww
年の瀬も近づいておりますので、お体変調の無きよう日頃のケアにお気をつけいただき、ご自愛下さいませ。m(_ _)m
で、、最近変わった事と言えば、こないだ恥ずかしながら、YouTubeデビューを果たしました🎥✨
主に自分の歌と演奏を載せていこうと思っています。
⬇⬇『But fighter still mains』YouTubeさんから。
『But the fighter still mains』 - YouTube
元々、ギターや三線などで自分の歌を動画に撮ったりはしていましたが、普段のありきたりな自分に何か変化をもたらしたいと思い、思いきってYouTubeに動画を載せてしまいました💦💦
ぼちぼちですが、気の向いた時にYouTubeに動画載せていきますので、もしよろしければ、そちらもご愛顧いただければ嬉しいです。σ(^o^;)
さて、自分の話はこのくらいで置いといて......(笑) 今回のブログテーマですが、さっき話したYouTubeデビューにも多少絡んでくるのですが、最近60年代のアメリカ、イギリスの音楽をよく聴きます。
ビートルズ、ローリング・ストーンズ、グレイトフル・デッド、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ジミ・ヘンドリックス......etc.
そして、これらを聴いているうちに一人のアーティストへとたどり着きました。
ボブ・ディランです。
⬆オッチャンになっても、渋さは健在😍
彼は1962年にレコードデビューし、二枚目のアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』で、一躍プロテスト・フォークソングの寵児として人々にまつりあげられる事になりました。
『風に吹かれて』『神が味方』『激しい雨が降る』などは、僕もよくコピーして練習してました。
その後、様々な変化を見せ、フォーク/ロックの歴史にその名を刻み今なお精力的に活躍していますよね。
日本では、よく『フォークの神様』『フォーク・ロックの先駆け』として紹介され、現在の音楽性に多大な影響を与えた存在として語られていますが、当の本人にしてみれば「ただ、やりたいと思った事をやっただけ」と平然としているのも面白いですね。😂
で、何故ボブ・ディランを挙げたかは、これから書かせていただきます。
実は、ボブ・ディランがデビューした時期、アメリカでは大学生や黒人の間で、現政権に対する矛盾や不満があちこちで爆発していて、抗議活動や人種差別問題について黒人が暴動を起こしたりしていた、混沌とした時代だったのです。
ちょうどアメリカ政府が、ベトナム戦争に介入していたのもあってか、そういういざこざは至るところで勃発していました。
その最たる運動のひとつに、公民権運動があります。(詳しくはコチラ⬇⬇)
⬆公民権運動に大きな影響をもたらした人物。上段左からW・E・B・デュボイス、マルコムX、 マーティン・ルーサー・キング、ローザ・パークス
南北戦争を経ても、変わらず続く白人による黒人への差別が合法化していた社会に、異議を唱えた黒人の人々がいっせいに立ち上がった瞬間でした。
マーティン・ルーサー・キング二世や、マルコムXなどの力強い指導者を先頭に、1963年8月には、ワシントン大行進という抗議デモも行われました。
この行進には、一般の人々が参加しましたが、中には著名人も何人か参加していたようです。
俳優のマーロン・ブランドやチャールトン・ヘストン、平和活動家としても有名な歌手のジョーン・バエズ、ピート・シーガー、ベトナム反戦歌などを歌っていたピーター・ポール&マリーなどが主なメンバーでした。
そして、彼らと共にボブ・ディランも参加して、ジョーン・バエズと共に歌も披露したそうです。🎵
そういった変革の時期にデビューしたボブ・ディランは、自作の歌を唄い、また尊敬するフォークシンガー、ウディ・ガスリーやアメリカン・トラッドを唄って神聖なフォークソング・ファンに絶大な声援を受けていた時、何を思っていたのでしょうか......。
ある時、ジョーン・バエズのもとをディランが去った際に、「彼はほかにしたい事があり、彼を運動の同志だと思い込んでいた私は、ショックを受けた」と述懐しているように、ディランにとって公民権運動は、さほど自分の中で重要なポジションを占めていなかったようにも思えます。
前述のワシントン大行進から二年後に、ディランはアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、バンドを従え、風貌も変え、現在ではロックの古典的名作と位置付けられている『ライク・ア・ローリング・ストーン』を世に放ち、それまで彼を神と崇めていた多くのフォーク・ファンから激烈なブーイングを叩きつけられてしまいました。
「ディランは商業主義に走った」「彼はフォークを侮辱し、我々を裏切った」と、口々に囁き、それでもなお自らの道をひた走ったボブ・ディランの心に純粋にあったものは、すなわち『音楽』そのものだったのでしょう。
(ボブ・ディランをもっと知りたい!と思われた方は、こちらのDVDをご覧いただく事をお勧めします🎵)⬇⬇
そして、公民権運動のキーパーソンとして忘れてはならない人物がもう一人います。
先にも紹介したマーティン・ルーサー・キング二世です。
⬇⬇【日本語字幕 キング牧師「私には夢がある」】YouTubeさんから。
【日本語字幕】キング牧師 「私には夢がある」~ Martin Luther King "I Have A Dream"(Japanese Subtitles ) - YouTube
⬇⬇【" we shall overcome " Martin Luther King,Jr.】YouTubeさんから。
"We Shall Overcome" - Martin Luther King, Jr. - YouTube
この人の事は、僕も中学の英語の授業で習いました。
ワシントン大行進の際の、『I Have A Dream!! (私には夢がある)』で始まるスピーチは学校の教科書にも載るほどに有名ですよね。
彼は、プロテスタントバプテスト派の牧師で、キング牧師の名で知られています。
キング牧師の働きは、白人に虐げられ、差別されてきたアメリカ中の黒人に夢と希望と勇気を与えてくれました。
しかし、1968年4月4日、遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “en:I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説後、メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれてしまいます。
弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されましたが、間もなく死亡しました...😢
同じように、指導者のマルコムXもキング牧師暗殺の三年前の1965年2月21日、マンハッタン、ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、400人の群衆の中で騒動が発生し、男が「俺のポケットから手を離せ! ポケットにさわるな!」と叫ぶと、散弾銃をマルコムの胸めがけて発射。
マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとした時でした。
さらに他の二人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲、マルコムは15発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれましたが死亡が確認されました...😢
この黒人への人種差別問題は、多民族がごった煮のように集って生きるアメリカという国の体制がもたらした悲劇にほかなりません。
日本国内で言われている、人種差別などとはまったく問題の起点が違いすぎます。
日本の場合は、由緒正しき大和民族が国民の大半を占めているのに対し、密航や渡航で日本に住みつくようになった朝鮮人、支那人は年々増えてきていますが、それでも少数派です。
まして、在日外国人が人種差別だ!と訴えるのは非現実的で矛盾した理論が展開されているのも事実です。
日本人は、白人のように嫌悪感や疎外で在日外国人を批難しているのでは決してないのです。
ちゃんとした理由があるからこそ、不逞朝鮮人、支那人は日本から出ていけ!と言っているのですが、それを排外主義、差別主義(レイシズム)としているのですから、白人による黒人差別と混同するのは、いささか違うものと思います。
もとはと言えば、アメリカ大陸に古くから住んでいるネイティブ・アメリカン=黒人だったのですから、後から住みついた白人が、インディアンを虐殺、追い出すなどという事は、明らかな侵略ととれる行為です。
オーストラリア大陸でも、アボリジニという先住民族を後からやって来た、白人が虐殺したのですから、同じ事が言えるわけです。
したがって、白人という人種こそが真の差別主義者、排外主義にまみれた獰猛で狡智のはたらく人たちだと僕は根底に気持ちを持っています。
大東亜戦争勃発に関しても、アメリカのルーズベルト大統領の外交圧政と策略によって引き起こされたもので、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉にアメリカ国民を煽った彼こそ、悪魔の如く狡賢い人種差別主義者ですよね。
先の大戦は、白人による黄色人種への差別意識がなければ起こりえなかった と断言していいものと思います。
南北戦争でも、黒人を奴隷として扱わなければ起こらなかったでしょう。
世界が最も正さなければならないのは、人種差別こそだと思います。
黒人がアメリカにおける人種差別問題に公然と抗議し、隆盛を迎えた1960年代、二人の指導者を失った後、現在ではあの頃の運動が功を奏し、昔ほど酷い黒人差別は影を潜めたものの、やはりアメリカのどこかで今も行われているのでしょうか......。
ジョン・F・ケネディ大統領暗殺、キング牧師、マルコムX暗殺、そしてベトナム戦争。
時代も人も混沌と疲弊に満ちていたあの時代で、正しい事を訴え、自分の夢を実現させようと闘った勇ましき人々の面影は、ふと振り返った時、いつだって僕たちの脳裏に鮮明に甦ってくる事でしょう。
この世に人間が存在する限り、闘いは日常生活に溢れ、常に勝利を標榜しなければ正しき事すらも闇に紛れてしまいます。
👊闘いに勝つ事=守るべきものを守れる事。
👊闘いに勝つ事=正しき事を実践できる事。
👊闘いに勝つ事=喜びと平穏を取り戻す事。
『We Shall Overcome』(我々はいつの日か勝利を手にする)
公民権運動で『I Have A Dream』と並んで平和と平等を願う人々の合言葉として口ずさまれていた言葉です。
⬇⬇【"Civil Rights Music Video "We Shall overcome" by Peter Seeger"】YouTubeさんから。
Civil Rights Music Video "We Shall overcome" by Peter Seeger - YouTube
今回も拙い文章を最後まで読んで下さいまして、まことにありがとうございました🙇
今回は、この辺で失礼いたします。
@2677/ 11/ 29/ 草稿
『新嘗祭』と天照大神☀✨ 継承していきたい日本人の姿勢
こんばんは。aikokuken-ryuji🐶です。
世は立冬を迎え、本格的に寒くなってきましたね。
まさに冬の到来......❄ 町中でも、厚手の装いにブーツやマフラー着用の人も、ちらほら見かけるようになりました。
皆様、風邪など召されませんように、お体ご自愛下さいませ。m(_ _)m
さて、今回のテーマですが、ひとつ日本古来の歴史に立ち戻ってみまして、そこから日本人として継承していかねばならない姿勢について書いていきたいと思います。
ここで皆様に質問です👀
来る11月23日は何の日かご存知ですか❔
そう! 『勤労感謝の日』✨✨ 祝日ですよねー㊗🎌
国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨とし、1948年(昭和23年)に公布・施行された同法により祝日として制定されたのに始まります。
しかし、もっと古くから、勤労感謝の日の基盤となる祭事が存在したのはご存知でしょうか。
農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があり、また、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった新嘗祭(にいなめさい、又はしんじょうさい)の日が第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」なのです。
テレビや新聞などで、秋頃に天皇陛下自ら稲を刈り取られるお姿を拝見されると思いますが、まさにその収穫されたお稲が、伊勢神宮の神嘗祭に奉納されるほか、11月23日の新嘗祭などの宮中祭祀(さいし)にも使われるのですね。
⬇⬇【陛下 恒例のお稲刈り】産経ニュースさんから。
では、天皇陛下が刈り取られたお稲、お米はどういった使われ方をするのでしょうか。
それは、伊勢神宮に祀られている、皇室の皇祖である天照大神様に捧げられ、国の繁栄と平和・安泰をお祈りされる為のものです。
神様やご先祖様にお供え物をして、手を合わせる......皇室でなくとも、ごく普通の一般家庭でも広く行われている、これこそ日本古来より伝わる伝統ですね。(*^^*)
とは言うものの、戦後日本は高度成長期を成し遂げ、物質面で豊かになった分、精神面を大事にするのを疎かにし、スピリチュアルな部分に重きをおかなくなってしまった事もあり、核家族化、先人やご先祖様に感謝する、手を合わせる、それまで日本人として当たり前の行為だったそれらが次第に現代人の心から無くなっていったように思います。
これは非常に悲しい事です。😢
せっかく現代まで脈々と血を受け継いでこられたご先祖様あってこその自分達......にも拘わらず、恩を忘れ義理を感じずそっぽを向かれてしまっては、ご先祖様や先人の方々にとっては、遣りきれない気持ちでいっぱいになってしまうものと思われます。
規律、風習、伝統、文化、それらが外国から入ってきた横文字、欧州文化、流行にとって変わられ、影を潜めてしまったところに、我々日本人が根底に持つ『心』が腐敗し、行き止まりになったのがそもそもの過ちだと思います。
現代日本に於けるラジカル、ヒューマニティ、フェミニズム、リベラル、を思想信条とする人たちは、日本古来の伝統を封建的、泥臭い、土着観念などと否定しますが、まったく違うと思います。
むしろ、伝統文化を重視し受け継いでいくことの方が、より日本人として自然的で、あるがままの姿勢だと思いませんか❔
なんだか、まとめみたいな感じで書いてしまいましたが、まだまだ続きます(笑)
さて、上記で書いた『新嘗祭』についてですが、歴史では飛鳥時代に始まったとありますが、『日本書紀』や『古事記』などの神話では新嘗祭にまつわる、このような話が残されています。
それは『天孫降臨』です。
『日本書紀』『古事記』など神話に詳しい方は、ご存知の事と思います。
天照大神が、須佐之男(すさのお)様の乱暴を目にし、天の岩屋戸に入ってしまい、世界は真っ暗闇になってしまいましたが、八百万の神々の神楽の賑やかさに、天照大神が外を覗き見た瞬間、天の岩屋戸が開かれ、世界がふたたび光り輝く国に戻ったという、『天の岩屋戸』に次ぐ有名なお話です。
その『天孫降臨』ですが、概要だけお話しすると、
【遠い昔、天照大神の孫であるホノニニギノミコトは、神々をお供に連れて "三種の神器" とともに天上から降ってまいりました。
ホノニニギノミコトと神々は筑紫の日向の高千穂峰に降り立ち、ニニギは山の神であるオオヤマツミノカミの娘、コノハナノサクヤビメと結婚し、コノハナノサクヤビメは、一夜の契りで身ごもった。
しかし、ニニギに我が子であるのかと疑われたため、その疑いを晴らそうとコノハナノサクヤビメは炎の中で出産をした】
これが、いわゆる『天孫降臨』にまつわる話ですが、この神話と新嘗祭には、どういった関係が隠されているのでしょうか。
その答えは、神話のいたるところにキーワードがあります。
ひとつは、ホノニニギノミコトが神々と地上に降る際に祖母の天照大神が、稲穂を与え、「これでみんなのお米を作りなさい」と教えたのだそうです。これがひとつ。
そして、ホノニニギノミコトが降り立った『高千穂』は、収穫祭の祭場に高々と積み上げた稲穂を意味する地名で、稲の最初の伝来地も、高千穂(北は宮崎県高千穂町、南は宮崎県と鹿児島県にまたがる霧島連山の高千穂峰)九州であるとされています。
また、ホノニニギノミコトの名称ですが、「ホ」とは稲穂の「穂」、「ニニギ」とは「賑やか」という意味があり、天地が賑わいに溢れ、稲穂が豊かに実る というものだそうです。
すなわち、日本の稲作伝来とその文化の波及を生んだのが、ホノニニギノミコトによる『天孫降臨』がルーツにあったのですね。
日本という国を形作ってきた、日本の神話は2600有余年の歳月を経て、いつまでも国民の目に色褪せぬ輝きを放つものとして、永遠に語り継がれなければならないものです。
これを機会に、僕も少し勉強してみようかな?と思いました(*^O^*)
よろしければ、ご一読下さい。m(_ _)m
ここまで『新嘗祭』と、それにまつわる神話について話してまいりましたが、それにあやかって最後にもうひとつだけ......☝(久々の橘右京 登場ww)
ご飯をいただく際に、欧米・欧州スタイルのライスにスプーンを使うのではなく、我々日本人(一部アジア諸国も含む)は、必ず箸を使いますよね。
その箸の使い方について付け加えて書かせていただきます。🙏
掲載した画像にもありますように、箸の使い方のマナーなどが、昨今若い親が知らないで子供にちゃんと教えていないところが、多少見受けられます。
その一例が「迷い箸」や「刺し箸」「ねぶり箸」「寄せ箸」などです。
ほんのささいな事ですが、これらは家庭の中ではさして恥ずかしくないかもしれませんが、外食などの時には注意せねばならないものですね💧
よく、子供の頃、人に箸を向けて指差すようにしたり、ご飯に箸を立てて挿したりすると、親から怒られていました。😝💦
ひとつひとつ、詳しくは書きませんが、生意気ながら加えさせていただきました。
若輩者が生意気言って、すみません❗😣💦
ひとつの話のネタとして、箸のマナーについて受け取っていただければ幸いです。(^^;)
今回も、拙い文章でしたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました🙇
感謝申し上げます。
食べられる事の幸せ、神様やご先祖様、先人の方々に感謝して、日々ご飯をいただきましょう。(⌒‐⌒)🍚✨ すめらぎ、弥栄🎌🎌
@2677/ 11/ 14/ 草稿
往年の上方漫才✨これぞ日本人の笑い、これぞ上方芸能
まいど❗ aikokuken-ryuji🐶だ!! 皆さん、お元気してはりまっか~~??😁
......すみません💦 今回はちょっといつもと変わった登場の仕方をさせていただきました。
改めまして......
皆様、こんにちは🙇 aikokuken-ryuji🐶でございます。
って、こうやって改めてかしこまってしまうと、なんかやりにくいですね😅
ごめんなさい🙏💧
衆院選も終わって、もうそろそろ一息ついてもいいかなー と思いまして、今回のブログは政治抜きで肩の力を抜いてひとつお笑い芸能ネタを書かせていただきます。
お笑いネタを書くのは、ブログ始まって以来初めての試みですが、僕自身、幼い頃から吉本新喜劇やら上方漫才やらに親しんできたので、そこはなんとか関西発のノリで凌いでいきたいと、かように思います。
僕は、子供の頃、よくテレビで吉本新喜劇を見て笑い転げていました。
お正月になると、昔の漫才師の映像がテレビで放映され、それを見て抱腹絶倒していました。
中でも好きだったのが、横山やすし・西川きよしのコンビ、通称『やすきよ』漫才でした。
皆様、ご存知ですよね❔ 東西隔たりなく世の中を笑いと波乱の渦に巻き込んだ、アノ、コンビですwww
このお二方の漫才は、ほんまにこれぞしゃべくり漫才❗ これぞお笑いの真骨頂❗ それに加えてボケとツッコミが激しく入れ替わるスピーディーにして小気味の良い漫才ワーク。
この二人を追い抜ける、また上をいく漫才師は、東西はおろか、この世の中にはいないんやないか......と当時は思っていました。(今もですが😅)
しかし、歳を経るにつれて、いろいろな昭和の漫才師を知る機会を得、なるほど、、昔の上方漫才には、やすきよに勝るとも劣らないスゴい漫才師がたくさんいたんだなと痛感させられました。
今回のブログでは、今日上方漫才界の頂点に君臨して揺るぎ無いやすきよ漫才の先輩格にあたる笑いの殿堂とも言える伝説的な漫才師をご紹介させていただくと同時に、昨今下火になっているお笑い界にお灸を据えるようなかたちでもって、『お笑い』とは何か、お笑いを通じて日本の心、『お笑い』から日本人の心、姿勢を学ぶ為に、ひとつ皆様といろんな視点から検証していきたいと思っています。
どうか、肩の力を抜いて、終わりまでお付き合いよろしくお願い致します(*^^*)
最初に余談ですが、東京在住の友達から、こんな話を聞いた事があります。
「日本の文化は、関西発祥がほとんどで、東京は沢山文化が流れて流行った訳だからね」
これには深い歴史的観察が必要だと思うのですが、僕はこれを聞いた時、なるほど❗ と根拠も無く納得してしまいました(笑)
でも、関東のお笑いも面白いのもあるし、でもやっぱりお笑いは上方なのかな~ってその間に挟まれて右往左往している今日この頃なのですが、、僕は関西に生まれ関西の文化に揉まれて生きてきた人間として、ブログテーマに沿って、上方お笑いについて語っていきたいと思います。
さて、では、最初の寄席に参ります(笑)
トップバッターを飾るのは、関西が生んだ天下の上方漫才その①
『中田ダイマル・ラケット』のお二方です。
はい、拍手~~!!👏👏👏
弟子に中田アップ、中田カウス・ボタンなどがいる、戦後上方漫才を代表する二人。
通称『ダイラケ』。
今日の漫才の雛型とも言える、掛け合いの巧みなことと言ったら、かの、やすきよ漫才の上をいくうまさと様々なネタで、大衆を笑いの渦に巻き込みました。
僕が15歳の頃、中田ラケットさんが逝去されたのを新聞でみたのをおぼえています。
幼い頃、テレビでみた「青火が ぱー ボヤが ぽー 」という台詞が印象に残っていましたね(*^^*)
これはダイラケ漫才の代表作たる『僕は幽霊』のなかのひとコマ。
兄ダイマルの静かに囁くような些細なボケに、弟ラケットがいちいち突っ込むそのスタイルが、妙に自然で、大阪の一般市民が日常で交わしているやり取りにも見られるような、親しみやすさが、大衆に受け入れられたものと思います。
大袈裟に笑いを取ろうと身ぶり手振りするよりも、あくまで自然体で笑いを取るダイラケ漫才は、老若男女すべての層に通用するものとして、上方お笑いのお手本として認められているのもうなずけますよね。
弟子の中田カウス・ボタンの漫才を見ていても、どこかダイラケに通じるところがあるような、勢いよく ドッ!!! と起こる笑いでなく、ジワジワ...と込み上げてくる様が、師匠の『爆笑王』と異名をとる漫才を受け継いでいるゆえんでもあります。
さてここで、ダイラケにまつわる裏話をひとつ......。👀
実はダイマルは、酒と女性が大好きであり、人気も収入も全盛期であった53歳の時に、当時の奥さんに全ての動産・不動産を譲ることを条件に離婚し、32歳年下の女性と再婚しました。
新たにダイマルの妻となった和子夫人(中田和子、中田興芸代表取締役を勤めた)は、作家としてダイマルとのドキュメント小説を出版しています。
なお、和子夫人はダイマルの長男よりも年下である。(;゜∇゜)
この結婚は当時ワイドショーで大変話題となり、バラエティ番組でも司会者からよく突っ込まれていたそうです。
結婚歴は二回ですが、一人目との妻との間の三番目の子供とは別に、妾の女性との間に次女と同い年の娘がおり、ダイマルのマネージャーを勤めた頃もあったという女性好きのダイマル。舞台に立った時の好好爺のような感じとは似ても似つかない面があるのも、そこはお笑い芸人としてのお約束的な裏事情。
『浪花恋しぐれ』や無いけどやっぱ芸人は遊んでナンボwwwwww
またダイマルは、加齢のためレギュラー番組がなくなってからは特に飲酒量が増え、それがきっかけで胃潰瘍になり、腹膜炎により亡くなりました。(T-T)(享年70、満年齢68。)
対するラケットの方は、明るく遊び人であった兄ダイマルとは対照に、とても無口で神経質な性格であり、大きな舞台では顔が引きつるほどのもので、ラケットをダイマルがニコニコ笑いながら励ます光景がよく見られたそうです(*^_^*)
漫才の途中でも、ダイマルが放つボケに思わずラケットが笑ってしまうなど(それにより客席も笑いを増す)、兄弟愛というか、支え支えられの息のピッタリ合ったコンビでした。
『3秒に一回、客席を笑わせる漫才』は、ダイラケをおいて未だにお笑いの世界で出て来ていません。
気持ちが落ち込んだ時、家族や友人と喧嘩してしまい、胸の内がモヤモヤしている時など、ダイラケの漫才を見るとそんな煩わしい事さえも忘れさせてくれる事でしょう。
⬇⬇【中田ダイマル・ラケット ダイラケこれが漫才だ!】YouTubeさんから。
中田ダイマル・ラケット『ダイ・ラケ これが漫才だ!!』 - YouTube
⬇⬇【『僕は幽霊』中田ダイマル・ラケット】YouTubeさんから。
漫才 【僕は幽霊】 中田ダイマル・ラケット - YouTube
⬇⬇【中田ダイマル・ラケット師匠の漫才『僕の漂流記』】YouTubeさんから。
中田ダイマル・ラケット師匠の漫才「僕の漂流記」 - YouTube
ドンドン❗ さて、ちびっこによるお囃子の太鼓が鳴り響きましたので、次の寄席にうつりたいと思います。(笑)
次なる天下の上方漫才師その②は......
『島田洋之介・今喜多代』のご両人です~~!!👏👏👏
このお二人は、宮川大助・花子、かつみ❤さゆりなど今日では漫才のジャンルとして定着している『夫婦漫才』のはしり とも言われています。👫
そのほかにも、暁伸・ミスハワイ、鳳啓助・京唄子、ミヤコ蝶々・南都雄二、正司敏江・玲児などがいましたが、このコンビの特徴としては、島田洋之介は大阪の人(兵庫県出身)、対する今喜多代は東京にルーツを置くというもの。
実際、喜多代は茨城県水戸の出身で、育ちは東京・浅草という経歴を持ち、漫才師であり、曲芸師でもあった巴家寅子に弟子入りし、「巴家寅の子」を名乗っていました。
漫才などのやり取りを聴いていても、夫婦漫才特有の「あなた」「お前」的な会話や、時に妻が夫をけなしたりと、それが面白可笑しく客席に伝わっていますよね。
喜多代のマシンガンのようなしゃべりと、それにゆっくり応えて突っ込む洋之介のスタイルは、後の夫婦漫才の流れに脈々と継承されています。
しかも、こまっしゃくれで小柄な喜多代と、ズーンとのっぽな洋之介の身長差も印象深かったように思います。
そんな夫婦漫才で人気を博したご両人でしたが、洋之介が糖尿病を患い、その悪化で1979年に引退し、1985年には、洋之介が死去されました。😢
残された喜多代は、今日規汰代(きょう・きたよ)と改名して元気な姿を見せていましたが、平成2年3月にコンビ解消し、隠居生活に入ったまま、2011年に死去されました。😢
弟子に、1980年代初頭の漫才ブームに乗って人気者となった、今いくよ・くるよ(いくよは、胃がんのため、2015年5月28日午後5時、大阪府内の病院で67歳で亡くなられました...😢)、紳助・竜介(松本竜介)の島田紳助、B&Bの島田洋七、吉本新喜劇で活躍をみせる島田一の介などそうそうたるメンバーがいます。
彼らがお笑いの第一線で活躍できたのも、やはり師匠の島田洋之介・今喜多代の上質な夫婦漫才で礎を築いた栄光があったればこそだと思います。
それを通じて、先人の偉業、足跡を着実に踏襲していく若手芸人の道筋の源流には、必ず師匠のつけた道標というものが重要になってくるものですね。(*´-`)
仕事や生活のストレスで、気持ちが塞ぎがちになったり、言いたい事も言えない心境に追い詰められている時など、この洋之助・喜多代の小気味良さと人情味溢れる暖かさに包まれた夫婦漫才を見れば、気持ちが晴れる事請け合いです(о´∀`о)
⬇⬇【島田洋之介・今喜多代 (1978)】YouTubeさんから。
⬇⬇【島田洋之介・今喜多代 お笑い男と女】YouTubeさんから。
ドドドン❗ 今度は少し年長さんの子供が、お囃子の太鼓を叩きます。
さぁ~、では次の寄席にいってみましょう。
天下の上方漫才その③に登場してまいりましたのは......
『Wヤング』のお二人でございます~~!!👏👏👏
Wヤング といえば、皆様はこちらの方がピンとくるのではないでしょうか❔
初代メンバーは、平川幸雄と中田治雄でしたが、現在は平川と佐藤の二人で活躍してるのをテレビなどで見かけるかと思います。
では、何故、初代Wヤングは無くなってしまったのか...。
解散? 多くの方はそう思われるでしょうが、初代Wヤングとして現在活動していない、或いはできない理由は、違うところにありました。
それは追々と話していきたいと思いますので、まずは初代Wヤングについて書いていきます。
かつて、漫才ブームで人気者だった関東の漫才師●ツービート(ビートたけし/ビートきよし)のビートたけしが著書に記してある言葉があります。
「ツービートが何年やっても追い抜くどころか、追い付く事さえできないスゴイ漫才」
これは、初代Wヤングの漫才におけるひとつの評価です。
その絶賛の通り、初代Wヤングは実力派漫才でお茶の間を賑わせたスゴイ存在だったのです。
上方漫才の典型ともいえる、しゃべくり+ダジャレを多用した個性的な漫才が秀逸でした。
漫才だけでなく、キャラクターも活かした活動もしていましたね。
たとえば、漫才する前は、歌手を目指していたという平川幸雄がWヤングとして「坂町ブルース」を発売、大ヒットしました🎵
そして、肝心の漫才 と言うと、上記に書いたとおり、しゃべくり+ダジャレというスタイルで、お客さんだけでなく、周りの漫才師も注目・若手などはお手本にしていたといいます。
例えば、こんなダジャレの掛け合いがあります。⬇⬇
【(野菜ネタ)>「人のことなんかかぼちゃられませんわ」「なんでもごぼうごぼう上がりますよね」「いい加減に椎茸」「アスパラどうしたらいいの」「ではこのへんでえんどう豆」など。
(政治ネタ)>「何ちゅう事を郵政大臣」「オナラ一発、国務大臣」「そんな事はあ官房長官」「国民を大事にせんといけんだ(池田)勇人」「また調子に農林大臣」「ではこのへんで吉田茂」など】
文字で書いても、ちょっとおもろないですか❔wwwwww
この平川と中田のダジャレ合戦みたいなテンポ良い漫才が人気を博し、「やすきよが最も恐れる存在」と言わしめた実力は、この時頂点に達していました。
しかし、人気絶頂な中、突然中田が失踪するという事件が起きました。
忽然と姿を消した中田は、その後どうなったかと言うと、当時胆石で体調を崩し入院していた平川のもとに「中田治雄 熱海の海岸で自殺」という一報をきいたのです......😢
何故、人気絶頂期の漫才やったのに自殺したのか......。
それは、中田が、楽屋ではやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱えた為でした。
1979年10月25日。熱海の海岸で飛び降り自殺でした。なんと41歳。あまりにも若すぎる、早すぎる死でした(T_T)
人気絶頂の最中での突然の中田の死は、言うまでもなく多くの芸人に衝撃を与えました。
発見現場近くの展望台には漫才の台本などが入ったカバンが残されており、便箋5枚に渡る「死出の旅」という遺書には「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれていました。
告別式の時には、平川は棺の前で「なんで死んだんや!」と号泣したのだそうです。
中田は、博打と事業で儲けようとしていたようでしたが、結局は自分の意志が弱く、借金で(ヤクザに との噂も)追い詰められ最後は自決という形での最期を選んでしまいました。
芸人にトラブルはつきもの とは言うものの、あの素晴らしい漫才を永遠に失ってしまったのは、ファンにとっても、吉本興業にとっても、また彼の死を誰よりも悔やみ、悲しんでいた平川にとって痛恨の極みでした。
やすきよの横山やっさんも、タクシー運転手とのトラブルや、酒、借金など数多くのトラブルが祟って、最終的に吉本興業が解雇、漫才が二度とできなくなるところまで追い詰められた後、アルコール肝硬変で若くして亡くなったのは記憶に新しいかと思います。😢
でも、平川、中田の初代Wヤングの漫才や、やすきよ漫才は、今なお人々に愛され、大いに暖かい笑いの声を集めていることが救いだと言えるでしょう。
両者の漫才は、もはや伝説となりしも、忘れ得ない上方漫才のひとつとして、これからも多くの人々を魅了し、笑わせてくれるだろうと信じています。
⬇⬇【Wヤング 漫才】Dailymotionさんから。
【漫才】Wヤング 85年頃の「漫才ベスト10」より by レトロテレビジョン - Dailymotion
ポンポン❗ ニャンと!!😻今度は、かわいい猫ちゃんがお囃子太鼓を叩いてくれました(*^ω^*)💕
では、続いて、今夜最後の寄席でございます✨
さて、トリを飾る天下の上方漫才その④にまいりましょう。
『人生幸朗・生恵幸子』のご両人です~👏👏👏
まず、人生幸朗といえば......
そう、「ボヤキ漫才」wwwwwwwww
必ず、漫才の冒頭で「この吉本興業で唯一の明治生まれの老齢は、名前やなしに、ボヤキ~ボヤキと呼ばれております」と自らが築き上げたスタイルを紹介してまず笑いの掴みをとります。
それに、相方(妻でもある)の生恵幸子の、「しょうもない事グダグダ言うな、この油虫」「何を言うとんのや、このヨダレクリ」「いつまでボヤいとんのや、このハナクソ」と容赦のない鋭いツッコミが入ります。
幸朗・幸子の漫才スタイルは、「ボヤキ」が売りであるのと同時に、幸子のツッコミにも重きが置かれ、夫の幸朗に対してのキツいともとれるツッコミも評判になりました。
島田洋之介・今喜多代の章でも書きましたが、この幸朗・幸子も夫婦漫才の要素を含んでいますが、それはあくまで基盤に添えて、世の中の政治、経済、文化などを幸朗がボヤく「ボヤキ漫才」として周知されていました。
残念ながら、この芸風は、人生幸朗一代で終わってしまいましたが、現在ではトミーズ、大木こだま・ひびきあたりの漫才にも、些少ですがポッとボヤキっぽいフレーズが顔を出したりしているような気がしますね。(^^;)
その幸朗・幸子の漫才が流行った背景には、大器晩成型の人生幸朗が「ボヤキのおっさん」として若者を中心に人気沸騰した事にあります。
それまでは、幸朗も幸子も、早くから芸の世界に入っていましたが、幾度となくコンビを変え、漸く幸朗と幸子が出会い、それから苦節20年、やっと自身の漫才スタイルを確立、花月でもトリをつとめるまでになったのです。
さて、幸朗のボヤキは主に流行歌をターゲット(笑)にたくさんの歌の歌詞に文句をつけ、笑いを得てきました。
しかし、それにもリスクが伴わないとは言えませんでした。
一度、人気絶頂期の山口百恵の歌をステージでボヤいたところ、ファンから嫌がらせや苦情のメッセージ、時には剃刀の入った封筒などが寄せられ、幸朗はそれにビビってしまい、「オイ、もう山口百恵の歌ボヤくのやめよか...」と妻の幸子に言ったところ「何言うてンの!こんな手紙くらい何じゃい!」とまったく意に介さなかったというエピソードが残っています。
幸朗が、絶頂期の1982年に亡くなるまで、終生の恋女房であり、公私共に支えてきたのが幸子だったのですね(*´-`)💕💑
そのような事はほんの一例に過ぎず、多くのミュージシャンや歌手などは、幸朗にボヤかれて自信を持った、嬉しい、との声が多かったといいます。
ある意味、ベテラン歌手が若手ミュージシャンにリスペクトされ、楽曲をカヴァーされ、それを嬉しく感じるのと似ていますよね。
同業の漫才師だけではなく、歌手など幅広い面から支持、愛された漫才は、幸朗・幸子くらいのものではないでしょうか。
それと、もうひとつ☝ こんなエピソードもあります。
幸朗は、実は物凄い弱視の為、舞台に立っていて、持ち時間終了30秒前に番組のADが客席の最前列で「終了何秒前」とカンペを出しても読めないので、そこで幸子が客席に気づかれないよう、「泥亀!」とツッコミをいれる事で、幸朗に知らせる手段であったと言われています。
そのフレーズを用いた為、幸朗はその次に「ワガママ、勝手な事ばかりお喋り申し上げまして......」とまとめに入れたのです。
やっぱり幸子はんは、幸朗にとって恋女房だんなぁ...(*´∀`)
しかし、時折、ストレートに「いつまでしゃべってンの。もう時間やし!」と言う場合もあり、また、「泥亀!」と叫んだ幸子に対し、幸朗が「泥亀て何や!」と苦笑すると、幸子「泥亀やないの。天王寺(四天王寺のこと)境内に行ってみ、亀の池にようけいまっせ」とやりこめる時もありと、熟成された芸人だからこその常に笑いをとる姿勢を蔑ろにはしませんでした。
まさにプロ中のプロ、、幸朗・幸子の漫才は、単に「ボヤキ漫才」一言で表現できるものではなかったもう一方の面「夫婦漫才」の型も崩す事なく展開していたのが窺えます。
幸朗「責任者、出てこい~~!!」(*`Д´)ノ
幸子「どないすンのんな、出てきたら」
幸朗「謝ったら、しまいや」(笑)(笑)👏👏
幸朗が亡くなって25年後の2007年2月、幸子も83歳で幸朗の元へと旅立ってゆきました。
きっと、天国でも二人はボヤキ漫才を大いに披露している事でしょう......。
「人生のお師匠はん」は、現代日本を見て、昔以上にボヤくネタが溢れている事と思います。
「芸人は、芸に徹しなければアカン。」人生師匠のお言葉です。
⬇⬇【ぼやき漫才 人生幸朗 生恵幸子 昭和漫才の大御所登場】YouTubeさんから。
ぼやき漫才 人生幸朗 生恵幸子 昭和漫才の大御所登場 こんな時代だからこそぼやき漫才で 相互登録 コメント返し SUB4SUB - YouTube
⬇⬇【思い出の漫才コンビ ベストテン5位 人生幸朗・生恵幸子】YouTubeさんから。
思い出の漫才コンビ ベストテン 5位 人生幸朗・生江幸子 YouTube - YouTube
いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけましたか❔😆😆
初のお笑いを中心としたブログでしたが、これら昭和の漫才を通して僕が思う事は、今のお笑いには昔のに比べると、暖かみがあまり感じられない。
確かに、お笑いというものは、面白ければOK
といった部分があり、お客さんもそれを暗黙の了解として許しているところに、問題があるのではないかと思わずにはいられないのです。
最近では、お笑いや漫才を、バラエティーの中に組み込んでしまい、お笑い・漫才の核というものが、置き去りにされてしまいがちではないでしょうか。
ひとつ例を挙げてみますが、横山やすしがホストをつとめたテレビ番組があって、それに登場してきたのが、当時『ライト兄弟』という名前だった浜田雅功、松本人志(のちのダウンタウン)が披露した漫才を、やすしが酷評した事がありました。
内容は、父母に対する不満を面白おかしく言い合うといったものでしたが、それをやすしが一喝したのです。
「自分らな、新しいネタやってると思ってるやろうけど、笑いには『良質な笑いと悪質な笑い』があるねん。君らの漫才は、悪質な漫才やねん。お父さん、お母さんを貶すような、そんな漫才はすな!」
面と向かってそういう風に言われた、浜田・松本はその事を快く思わず、長らく根に持っていたようですが、ダウンタウンとして売れ出した頃には、「おぅ、お前らあの時の『ライト兄弟』か。おもろなったなァ。頑張れよ」とやすしが声を掛けたというエピソードがあります。
そのように、先輩芸人達は、暖かい心を持って若手に接していただけでなく、お客さんに対しても暖かい姿勢で、かつ常に笑いへの執着、探究を欠かさず、それでいて『良質な笑い』に徹した上方漫才の伝統を守り、繋ぎ続けてきたからこそ、今日のお笑い芸人がいて、お笑いが享楽として国民に愛されているわけです。
やすきよ漫才をもう少し敷衍するなら、やすしの起こしたタクシー運転手とのトラブルで裁判沙汰にまで発展した後、舞台に復帰した二人の漫才には、その事がネタとして使われ、客席を湧かしたといいます。
やすし=やんちゃ このネタを用いたおかげで、やすきよ漫才はもうひとつ大きく飛躍したわけです。
「やすきよの漫才は、ドキュメンタリーの面ですごく力があった。やすしが起こした事件をネタにするという事は、それはつまりドキュメンタリー、それを発揮したのはやっぱりキーボー(きよし)の力ですわ。お客さんよりまず、やすしをノセる事考えて、それから舞台に立ったというキーボーは、ほんまにスゴい相方や。そのドキュメンタリー性をネタとして使った事で二人の漫才は一番花咲いたんやと思いますわ」と言ったのは、横山プリン(きよしとコンビを組む前の、やすしの相方)。
言うなれば、やすしのやんちゃがお笑いの枠を超え、現実問題として深刻味を増していった果ての、やすきよ漫才の終焉だったというのは本当に残念なところです。
現代のお笑いが、先人の積み上げてきた『良質な笑い』『日本古来の暖かいお笑い』などを継承して、これからも国民の娯楽として多くの人の頬を緩ませてほしいものですね。
なお、今回ご紹介させていただいた漫才師の映像は、動画サイト、YouTubeでもご覧いただけますが、DVDとしても出ているので、掲載しておきます。(*^▽^*)
もひとつおまけに......やすきよ漫才の粋を堪能するなら、こちらをどうぞ(≧∀≦)🎶
横山やすしvs西川きよし[モーレツ漫才ワークス] [DVD]
- 出版社/メーカー: よしもとミュージックエンタテインメント
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最後になりましたが、輝かしきキャリアと歴史を残し、天国に旅立って逝かれた上方漫才師の方々それぞれに、慎んで哀悼の念と、御冥福を御祈り申し上げます。🙏
今回も拙い文章のブログを、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました🙇
それでは、さいなら~~(^○^)/ ご機嫌よろしゅう~~🎵
@2677/ 11/ 7/ 草稿