あの日を忘れてはいけない...。3.10 東京大空襲と、3.11 東日本大震災から7年。
こんにちは🎵 aikokuken-ryuji🐶です。
前回のブログは、完全趣味ブログを掲載しましたので、今回は原点にたち戻りw 政治・時事ネタを取り上げさせていただきます。
さる3月10日、翌11日は、日本人が決して忘れてはいけない出来事がありました。
なんだと思いますか......?
そう。 3月10日は大東亜戦争末期にアメリカ軍が、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下と並ぶ大虐殺をおかした『東京大空襲』の日。
まずはこの3月10日の、東京大空襲について書かせていただきます。
東京は1944年(昭和19年)11月14日以降、106回の空襲を受けたましたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模な空襲でした。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多いのだそうです。
この3月10日の空襲だけで100万人を超えた罹災者が出ました。😢
そんな東京大空襲を指揮したアメリカ軍の軍人は、当時の日本国民から「鬼畜」「皆殺し」と呼称されました。
その人物とは、 カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月1日)
アメリカ合衆国の軍人で、第5代空軍参謀総長を務めたドイツや日本の空爆に関与していた人物です。
彼は、まずドイツでの空爆を成功させ、続けて対日作戦として、東京全土をくまなく調べ上げ、ナパームを使った焼夷弾をB29に搭載させ、あの大虐殺を実行にうつしたのです。
⬇⬇【米国の大罪 非戦闘員への日本大虐殺 本土空襲】YouTubeさんから。
米国の大罪 非戦闘員への日本大虐殺 本土空襲1944/11-1945/8 - YouTube
さらに、戦後ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えたといいます。
軍人としては、当然の弁だと思いますが、東京大空襲は民間人への無差別攻撃であり、これは断罪されるべきであるという意見が多数です。
僕もそう思います。しかしルメイは、そう感じつつも爆撃を行った。
人道に反している行為だという事はわかっていながら、「これは戦争だから」と理由をつけて。
これらについて、ネットなどでは、東京大空襲も、広島・長崎の原爆投下も、国際法違反なのではないか!? との意見が相次いでいますね。
ハーグ陸戦条約第25条に於いては、【防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない】とあります。
この条約に忠実に沿って戦争が行われていたなら、当然国際法違反に抵触します。
⬇⬇【陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約】geocitiesさんから。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/Treaties/Laws_and_Customs_of_War_on_Land.html
ハーグ陸戦条約
しかし、国際法というものにはいわゆる「強制力」というものが曖昧で、あらゆる事態が想定される、または想定外の事もありうるのですべての国際法(ハーグ陸戦条約、ジュネーブ条約など)に調印している国々でさえ、違反してしまう。
つまり、国によっての国際法と国内法の規定で食い違い等が起こるものと思われます。
そして、その条約違反事項について罪に問われるのは戦争終結後の軍事裁判で、敗戦国のみがやり玉にあげられ、戦勝連合国は何ら罪に問われる事はない現実に深い悔恨を感じずにはいられないのです。
上記のルメイの言葉の中にもそれは見られますね。
東京大空襲による民間人無差別大虐殺が、国際法違反だとするなら、ロシアの日本兵シベリア抑留、北方領土奪取もハーグ陸戦条約違反にあたると思います。
それらを言い出すと、キリがなくなるのでこの辺でやめておきますが、ルメイの話に戻ると、彼は戦後の1964年12月7日、日本に返還されたばかりの入間基地(旧・ジョンソン基地)で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与されました。
理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためとされていて、12月4日の第1次佐藤栄作内閣の閣議で決定されました。
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える人もいます。
当時としては、日本社会党、原水爆禁止団体、被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がり、国会でも叙勲に対し疑問視する声もありました。
東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答えました。
韓国や中国のように、千年恨む という民族性とはかけ離れた誇り高き日本人としてはそう思いたいところですが、アメリカによって多くの命を奪われた事は事実(史実)。
原爆にいたっては、世界で唯一の被爆国となってしまった我が国の惨状を知り、「戦時は戦時、戦後は戦後」とハッキリ分けて考えられるのでしょうか......。
僕には到底できそうもありません。😢
アメリカを恨んでいる というわけではありませんが、この東京大空襲を次世代に伝えていき、決して日本国民が忘れてはいけない歴史として紡いでいく事が大切なのだと思います。
⬇⬇【閲覧注意 東京大空襲の写真が凄まじい件】YouTubeさんから。
【閲覧注意】東京大空襲の写真が凄まじい件 - YouTube
では、翌日にうつりたいと思います。
翌3月11日......。一体、我が国に何が起こったのか。
ブログを読んでいただいている皆様にとっては、記憶に新しいかと思います。
2011年3月11日、忘れもしない『東日本大震災』の日です。
※以下、閲覧注意動画です。💦
⬇⬇【3.11 東日本大震災 大津波の全記録(50市町村の津波映像)】YouTubeさんから。
【3.11 東日本大震災】大津波の全記録(50市町村の津波映像) [TSUNAMI in japan 2011] - YouTube
⬇⬇【3.11 東日本大震災 最新版・180秒衝撃映像! 地震・津波の脅威、原発事故!】YouTubeさんから。
実際、被災された方々は、当時の様子を取り上げた動画なんて見たくもない! 思い出したくもない!! 悲しみと絶望しかわいてこない!!! というお気持ちでいっぱいだと思います。
家を失い、家族を失い、生きる希望も失った被災者の方々の心中を慮っても僕をはじめ、直に被災されていない人たちには、いくら慮っても足りないくらいです。
そんな僕なんぞが、東日本大震災の事について書くのは、被災者の方々にいささか無知で失礼にあたるのかもしれません。
でも、この震災によって多くの尊い人命が失われた、多くの甚大なる未曾有の被害によって日本列島が分断されかけた事実について、何も触れずに黙っている事ができません。
どうしてもできません。
僕は、震災当日、仕事に従事していて「もうすぐ休憩時間やぁ」とノホホンとした体でいました。
ちょうど14:50分をまわった頃、職場に荷物を運んできたトラックの運転手が「なんか、ケータイ繋がり悪いねん。なんでやろ?」と話しているのを見ました。
家に帰ってみると、テレビのニュースで頻りと「東北地方で震度7の地震がありました」と繰り返し報道されているのを見て、ようやく何が起こっているのかが判然としたのです。
その一年後になりますが、知人から誘われて、東日本大震災の復興支援活動に参加する事になり、岩手県陸前高田市の広田湾に赴きました。
新大阪駅からバスで片道13時間という長距離でした。
現地に着くと、車窓から見えたのは、だだっ広い道、場所。
その端々には、瓦礫の山が雑然と積まれ、倒壊した建物が目に入ってきました。
僕は言葉を失いました。今回の震災が阪神淡路大震災以来の大きな震災(阪神淡路の時、僕は小学生でした)だと言うのは知った上だったのですが、正直、現地で目の当たりにすると何も言えなくなりました......。
建物も家も何もないところで、初夏の陽射し(行ったのは6月頃でした)が眩しいくらいだったのをおぼえています。
肝心の復興支援活動ですが、広田湾の漁師さんのもとで、ホタテ漁のお手伝いをさせていただきました。
テレビで見たのとはまったく違い、海面は綺麗で物静かで、嘘のような静寂さが漂っていました。
その中でも特に印象深かったのが、現地の人にあちこち案内され、説明を受けた話で、「かつてここには、住宅が建ち並んでいました。それもあの大津波が、すべてをさらっていってしまいました」
連れて行かれた場所は、何もない空き地のようなところでした。
「(海の方を指差し)あっちの方から5階建てのビルくらいの大きさの津波が、押し寄せてくるのが見えて、私と子供達とおばあちゃんは、とにかく高い所へ避難する為、死に物狂いで走りました。その時は、本当に怖かった」
そのようなお話を、聴かされ、中には啜り泣く人もいました。
そこには、テレビで見るだけでは伝わってこない、ある種の現実感が、僕の胸の中に強烈なリアリズムとして広がっていくのを感じました。
余談ですが、この体験がきっかけで、それまでお花畑脳だった僕は『愛国』の概念が芽生え、保守的思考へと傾倒していったように思います。
この陸前高田市の復興支援活動は、僕の人生そのものを大きく変えたと言っても過言ではないです。
旧民主党政権時に起こり、政権与党の事業仕分けや、菅直人(当時)総理大臣の被災地での醜態もあり、負のイメージばかりつきまとう東日本大震災ですが、僕が見た被災者の方々は決して暗く澱んだ、それこそ最初に書いた悲しみと絶望にうちひしがれたような方々ばかりではありませんでした。
すごく前向きで、明るく、ユーモアがあり、暖かい印象が強かったです。
少なくとも、二回にわたる復興支援活動の最中、出会った方々は、皆そんな感じでした。
こちらが支援活動を通じて、東北の人たちに元気になってもらおう!と臨んで行ってるのに、逆に元気をいっぱいもらってしまった......😅 少しばかり申し訳ないという思いと、東北の復興は決して遠くはない!!と強い確信をもてるようになりました。
☝陸前高田市に、復興支援に行かせていただいた際、現地のコンビニで購入した本です。
あれから7年......。テレビでは、モリカケ問題で賑わうばかりで、東日本大震災の事はあまり流される事はありません。
宮城県南三陸町の、防災対策庁舎から必死で避難を呼び掛け、津波にのまれてしまった女性職員や、「来るな!」の声と共に眼前で津波にさらわれ夫を失った女性、救援物資を積み込み、救助にかけつけた米軍に「我々はこれだけで充分です。残りは、ほかの被災者の方に持って行ってあげて下さい」という男性の言葉に日本人の精神を見たアメリカ人などの逸話を、何人の日本人が知っているのでしょう。
悪質なメディアは、そんな事よりも自衛隊を批難し、2012年の熊本地震の際も、炊き出しを自分たちでやるからと『自衛隊は帰れ』の横断幕を掲げたふとどきな連中ばかりを取り上げたりします。
(#`皿´)💢💢💢💢💢
東日本大震災であれ、後に起こった熊本地震であれ、御嶽山であれ、自衛隊は絶えず国民の危機に迅速に駆けつけ、多くの救えない命を救ってくれ、トイレやお風呂、仮設住宅を無償で与えて下さいました。
そんな自衛隊に悪口雑言を投げ掛けるなど言語道断だと思います。
いつの日だったか、NHKが、被災者の特集で、いつまで仮設住宅で暮らさなきゃいけないのか という内容の番組をやっていました。
その仮設住宅がなければ、あなた方どうやって寒さを凌いで生活ができたのですか!?
既存メディアの心の無さには呆れるばかり。
いい加減にしてもらいたいです。
被災者の方々の心を弄ぶのは、復興への妨げだとしか言いようがありません。
⬇⬇【防災庁舎 遠藤未希さんの悲劇 ◆宮城・南三陸】memory.everさんから。
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_bosai-tyosya_miki.html
⬇⬇【どこが「希望の国」?トロント国際映画祭で賞をとった園子温監督は日本への憎しみを植え付ける】
どこが「希望の国」?トロント国際映画祭で賞をとった園子温監督は日本への憎しみを植え付ける。 - 目が覚めて思うこといろいろ
あと、ひとつだけ言わせていただきますが、東日本大震災で被った被害で、メディアが何度となく問題視しているのが、原発についてです。
福島第一原発に端を発し、福島県は放射能が一面にあふれ、立ち入り禁止区画として線を引かれ、住民は立ち退きを迫られ、放射能汚染による影響で食べ物など食べれない、福島県の人たちは放射能汚染で何年後かに甲状腺ガンが発症し、早くて3年以内には死に至る と、このような風評がメディアによって垂れ流され、さらに「原発No!!」「子供達の未来の為に原発を無くそう!!」という主張のもと活動する、反原発・脱原発派の団体が各地でデモや集会を開いています。
しかし、実際は放射能が福島県全域を覆い尽くすほど漏れたわけではなく、最小限度の汚染だけで済みました。
それなのに、メディアは原発による危険性を鼓舞し、それに輪をかけて反原発・脱原発派は、風評被害を広め、長い間福島県と福島県民を差別し続けてきました。
このデマに近い風評被害で、どれだけの福島県民が傷つけられ、貶められてきたのか想像できません。😢
⬇⬇【3.11 極左による慰霊式典反対への怒りのカウンター行動! H30/3/11ノーカット版】YouTubeさんから。
3.11 極左による慰霊式典反対への怒りのカウンター行動!H30/03/11ノーカット版 - YouTube
⬇⬇【桜井誠 東電本店合同会議へのカウンター 2018/3/11】YouTubeさんから。
【桜井誠】東電本店合同抗議へのカウンター【2018/3/11】 - YouTube
上の動画でも訴えられている通り、福島県の食べ物には、何ら放射能物質など混入してはおらず、むしろひとつの危険性は無いのです。
震災直後、3年以内に病気が発症して死ぬと言われた福島県民の方々が、原発による放射能の害で亡くなった例は今までのところ、皆無です。
つまり、メディアや反原発・脱原発派の団体の正体は、原発を日本から無くす事で弱体化を謀り、日本沈没を目論む反日集団だというわけです。
そんな事よりも、東北が本当に復興する日まで共に力を合わせ、協力し合い、同じ日本人としてもり立てていかなければならないのではないでしょうか!?
批判ばかりでは、何も生まれない。
ことある毎に批判ばかりする人たちは、いつだって後ろ向き。
前を向いて、復興に向けて、かつての賑わいと美しい東北の町を取り戻そうと頑張っておられる方々がいます。
僕らは、そんな方々の力になっていかなければならない。微力だけれども、ほんの小さなところから、祈るだけでもいいです。
自分達に何ができるかを考え、力にならせていただく事が復興への近道になれば、嬉しいと思いませんか?
⬇⬇【東日本大震災 希望 ONE OK ROCK/Be the light】YouTubeさんから。
東日本大震災 希望 ONE OK ROCK / Be the light - YouTube
⬇⬇【3.11 東日本大震災を忘れないで... 花は咲く】YouTubeさんから。
【3.11】東日本大震災を忘れないで… 花は咲く 私は何を残しただろう Flowers bloom What did I leave behind? - YouTube
🎵花~~は、花は、花は咲く~~✨🌺🌻🌹🌸✨
つい歌ってしまいました(*^▽^*)
東北の1日も早い復興を祈りつつ、今回のブログを閉じさせていただきます。
いつも最後まで読んで下さって、本当にありがとうございます。🙏
皆様には、本当に感謝しかありません。
それでは、佳き春の日をお過ごし下さいませ。🙇
@2678/ 3/ 16/ 草稿