往年の上方漫才✨これぞ日本人の笑い、これぞ上方芸能
まいど❗ aikokuken-ryuji🐶だ!! 皆さん、お元気してはりまっか~~??😁
......すみません💦 今回はちょっといつもと変わった登場の仕方をさせていただきました。
改めまして......
皆様、こんにちは🙇 aikokuken-ryuji🐶でございます。
って、こうやって改めてかしこまってしまうと、なんかやりにくいですね😅
ごめんなさい🙏💧
衆院選も終わって、もうそろそろ一息ついてもいいかなー と思いまして、今回のブログは政治抜きで肩の力を抜いてひとつお笑い芸能ネタを書かせていただきます。
お笑いネタを書くのは、ブログ始まって以来初めての試みですが、僕自身、幼い頃から吉本新喜劇やら上方漫才やらに親しんできたので、そこはなんとか関西発のノリで凌いでいきたいと、かように思います。
僕は、子供の頃、よくテレビで吉本新喜劇を見て笑い転げていました。
お正月になると、昔の漫才師の映像がテレビで放映され、それを見て抱腹絶倒していました。
中でも好きだったのが、横山やすし・西川きよしのコンビ、通称『やすきよ』漫才でした。
皆様、ご存知ですよね❔ 東西隔たりなく世の中を笑いと波乱の渦に巻き込んだ、アノ、コンビですwww
このお二方の漫才は、ほんまにこれぞしゃべくり漫才❗ これぞお笑いの真骨頂❗ それに加えてボケとツッコミが激しく入れ替わるスピーディーにして小気味の良い漫才ワーク。
この二人を追い抜ける、また上をいく漫才師は、東西はおろか、この世の中にはいないんやないか......と当時は思っていました。(今もですが😅)
しかし、歳を経るにつれて、いろいろな昭和の漫才師を知る機会を得、なるほど、、昔の上方漫才には、やすきよに勝るとも劣らないスゴい漫才師がたくさんいたんだなと痛感させられました。
今回のブログでは、今日上方漫才界の頂点に君臨して揺るぎ無いやすきよ漫才の先輩格にあたる笑いの殿堂とも言える伝説的な漫才師をご紹介させていただくと同時に、昨今下火になっているお笑い界にお灸を据えるようなかたちでもって、『お笑い』とは何か、お笑いを通じて日本の心、『お笑い』から日本人の心、姿勢を学ぶ為に、ひとつ皆様といろんな視点から検証していきたいと思っています。
どうか、肩の力を抜いて、終わりまでお付き合いよろしくお願い致します(*^^*)
最初に余談ですが、東京在住の友達から、こんな話を聞いた事があります。
「日本の文化は、関西発祥がほとんどで、東京は沢山文化が流れて流行った訳だからね」
これには深い歴史的観察が必要だと思うのですが、僕はこれを聞いた時、なるほど❗ と根拠も無く納得してしまいました(笑)
でも、関東のお笑いも面白いのもあるし、でもやっぱりお笑いは上方なのかな~ってその間に挟まれて右往左往している今日この頃なのですが、、僕は関西に生まれ関西の文化に揉まれて生きてきた人間として、ブログテーマに沿って、上方お笑いについて語っていきたいと思います。
さて、では、最初の寄席に参ります(笑)
トップバッターを飾るのは、関西が生んだ天下の上方漫才その①
『中田ダイマル・ラケット』のお二方です。
はい、拍手~~!!👏👏👏
弟子に中田アップ、中田カウス・ボタンなどがいる、戦後上方漫才を代表する二人。
通称『ダイラケ』。
今日の漫才の雛型とも言える、掛け合いの巧みなことと言ったら、かの、やすきよ漫才の上をいくうまさと様々なネタで、大衆を笑いの渦に巻き込みました。
僕が15歳の頃、中田ラケットさんが逝去されたのを新聞でみたのをおぼえています。
幼い頃、テレビでみた「青火が ぱー ボヤが ぽー 」という台詞が印象に残っていましたね(*^^*)
これはダイラケ漫才の代表作たる『僕は幽霊』のなかのひとコマ。
兄ダイマルの静かに囁くような些細なボケに、弟ラケットがいちいち突っ込むそのスタイルが、妙に自然で、大阪の一般市民が日常で交わしているやり取りにも見られるような、親しみやすさが、大衆に受け入れられたものと思います。
大袈裟に笑いを取ろうと身ぶり手振りするよりも、あくまで自然体で笑いを取るダイラケ漫才は、老若男女すべての層に通用するものとして、上方お笑いのお手本として認められているのもうなずけますよね。
弟子の中田カウス・ボタンの漫才を見ていても、どこかダイラケに通じるところがあるような、勢いよく ドッ!!! と起こる笑いでなく、ジワジワ...と込み上げてくる様が、師匠の『爆笑王』と異名をとる漫才を受け継いでいるゆえんでもあります。
さてここで、ダイラケにまつわる裏話をひとつ......。👀
実はダイマルは、酒と女性が大好きであり、人気も収入も全盛期であった53歳の時に、当時の奥さんに全ての動産・不動産を譲ることを条件に離婚し、32歳年下の女性と再婚しました。
新たにダイマルの妻となった和子夫人(中田和子、中田興芸代表取締役を勤めた)は、作家としてダイマルとのドキュメント小説を出版しています。
なお、和子夫人はダイマルの長男よりも年下である。(;゜∇゜)
この結婚は当時ワイドショーで大変話題となり、バラエティ番組でも司会者からよく突っ込まれていたそうです。
結婚歴は二回ですが、一人目との妻との間の三番目の子供とは別に、妾の女性との間に次女と同い年の娘がおり、ダイマルのマネージャーを勤めた頃もあったという女性好きのダイマル。舞台に立った時の好好爺のような感じとは似ても似つかない面があるのも、そこはお笑い芸人としてのお約束的な裏事情。
『浪花恋しぐれ』や無いけどやっぱ芸人は遊んでナンボwwwwww
またダイマルは、加齢のためレギュラー番組がなくなってからは特に飲酒量が増え、それがきっかけで胃潰瘍になり、腹膜炎により亡くなりました。(T-T)(享年70、満年齢68。)
対するラケットの方は、明るく遊び人であった兄ダイマルとは対照に、とても無口で神経質な性格であり、大きな舞台では顔が引きつるほどのもので、ラケットをダイマルがニコニコ笑いながら励ます光景がよく見られたそうです(*^_^*)
漫才の途中でも、ダイマルが放つボケに思わずラケットが笑ってしまうなど(それにより客席も笑いを増す)、兄弟愛というか、支え支えられの息のピッタリ合ったコンビでした。
『3秒に一回、客席を笑わせる漫才』は、ダイラケをおいて未だにお笑いの世界で出て来ていません。
気持ちが落ち込んだ時、家族や友人と喧嘩してしまい、胸の内がモヤモヤしている時など、ダイラケの漫才を見るとそんな煩わしい事さえも忘れさせてくれる事でしょう。
⬇⬇【中田ダイマル・ラケット ダイラケこれが漫才だ!】YouTubeさんから。
中田ダイマル・ラケット『ダイ・ラケ これが漫才だ!!』 - YouTube
⬇⬇【『僕は幽霊』中田ダイマル・ラケット】YouTubeさんから。
漫才 【僕は幽霊】 中田ダイマル・ラケット - YouTube
⬇⬇【中田ダイマル・ラケット師匠の漫才『僕の漂流記』】YouTubeさんから。
中田ダイマル・ラケット師匠の漫才「僕の漂流記」 - YouTube
ドンドン❗ さて、ちびっこによるお囃子の太鼓が鳴り響きましたので、次の寄席にうつりたいと思います。(笑)
次なる天下の上方漫才師その②は......
『島田洋之介・今喜多代』のご両人です~~!!👏👏👏
このお二人は、宮川大助・花子、かつみ❤さゆりなど今日では漫才のジャンルとして定着している『夫婦漫才』のはしり とも言われています。👫
そのほかにも、暁伸・ミスハワイ、鳳啓助・京唄子、ミヤコ蝶々・南都雄二、正司敏江・玲児などがいましたが、このコンビの特徴としては、島田洋之介は大阪の人(兵庫県出身)、対する今喜多代は東京にルーツを置くというもの。
実際、喜多代は茨城県水戸の出身で、育ちは東京・浅草という経歴を持ち、漫才師であり、曲芸師でもあった巴家寅子に弟子入りし、「巴家寅の子」を名乗っていました。
漫才などのやり取りを聴いていても、夫婦漫才特有の「あなた」「お前」的な会話や、時に妻が夫をけなしたりと、それが面白可笑しく客席に伝わっていますよね。
喜多代のマシンガンのようなしゃべりと、それにゆっくり応えて突っ込む洋之介のスタイルは、後の夫婦漫才の流れに脈々と継承されています。
しかも、こまっしゃくれで小柄な喜多代と、ズーンとのっぽな洋之介の身長差も印象深かったように思います。
そんな夫婦漫才で人気を博したご両人でしたが、洋之介が糖尿病を患い、その悪化で1979年に引退し、1985年には、洋之介が死去されました。😢
残された喜多代は、今日規汰代(きょう・きたよ)と改名して元気な姿を見せていましたが、平成2年3月にコンビ解消し、隠居生活に入ったまま、2011年に死去されました。😢
弟子に、1980年代初頭の漫才ブームに乗って人気者となった、今いくよ・くるよ(いくよは、胃がんのため、2015年5月28日午後5時、大阪府内の病院で67歳で亡くなられました...😢)、紳助・竜介(松本竜介)の島田紳助、B&Bの島田洋七、吉本新喜劇で活躍をみせる島田一の介などそうそうたるメンバーがいます。
彼らがお笑いの第一線で活躍できたのも、やはり師匠の島田洋之介・今喜多代の上質な夫婦漫才で礎を築いた栄光があったればこそだと思います。
それを通じて、先人の偉業、足跡を着実に踏襲していく若手芸人の道筋の源流には、必ず師匠のつけた道標というものが重要になってくるものですね。(*´-`)
仕事や生活のストレスで、気持ちが塞ぎがちになったり、言いたい事も言えない心境に追い詰められている時など、この洋之助・喜多代の小気味良さと人情味溢れる暖かさに包まれた夫婦漫才を見れば、気持ちが晴れる事請け合いです(о´∀`о)
⬇⬇【島田洋之介・今喜多代 (1978)】YouTubeさんから。
⬇⬇【島田洋之介・今喜多代 お笑い男と女】YouTubeさんから。
ドドドン❗ 今度は少し年長さんの子供が、お囃子の太鼓を叩きます。
さぁ~、では次の寄席にいってみましょう。
天下の上方漫才その③に登場してまいりましたのは......
『Wヤング』のお二人でございます~~!!👏👏👏
Wヤング といえば、皆様はこちらの方がピンとくるのではないでしょうか❔
初代メンバーは、平川幸雄と中田治雄でしたが、現在は平川と佐藤の二人で活躍してるのをテレビなどで見かけるかと思います。
では、何故、初代Wヤングは無くなってしまったのか...。
解散? 多くの方はそう思われるでしょうが、初代Wヤングとして現在活動していない、或いはできない理由は、違うところにありました。
それは追々と話していきたいと思いますので、まずは初代Wヤングについて書いていきます。
かつて、漫才ブームで人気者だった関東の漫才師●ツービート(ビートたけし/ビートきよし)のビートたけしが著書に記してある言葉があります。
「ツービートが何年やっても追い抜くどころか、追い付く事さえできないスゴイ漫才」
これは、初代Wヤングの漫才におけるひとつの評価です。
その絶賛の通り、初代Wヤングは実力派漫才でお茶の間を賑わせたスゴイ存在だったのです。
上方漫才の典型ともいえる、しゃべくり+ダジャレを多用した個性的な漫才が秀逸でした。
漫才だけでなく、キャラクターも活かした活動もしていましたね。
たとえば、漫才する前は、歌手を目指していたという平川幸雄がWヤングとして「坂町ブルース」を発売、大ヒットしました🎵
そして、肝心の漫才 と言うと、上記に書いたとおり、しゃべくり+ダジャレというスタイルで、お客さんだけでなく、周りの漫才師も注目・若手などはお手本にしていたといいます。
例えば、こんなダジャレの掛け合いがあります。⬇⬇
【(野菜ネタ)>「人のことなんかかぼちゃられませんわ」「なんでもごぼうごぼう上がりますよね」「いい加減に椎茸」「アスパラどうしたらいいの」「ではこのへんでえんどう豆」など。
(政治ネタ)>「何ちゅう事を郵政大臣」「オナラ一発、国務大臣」「そんな事はあ官房長官」「国民を大事にせんといけんだ(池田)勇人」「また調子に農林大臣」「ではこのへんで吉田茂」など】
文字で書いても、ちょっとおもろないですか❔wwwwww
この平川と中田のダジャレ合戦みたいなテンポ良い漫才が人気を博し、「やすきよが最も恐れる存在」と言わしめた実力は、この時頂点に達していました。
しかし、人気絶頂な中、突然中田が失踪するという事件が起きました。
忽然と姿を消した中田は、その後どうなったかと言うと、当時胆石で体調を崩し入院していた平川のもとに「中田治雄 熱海の海岸で自殺」という一報をきいたのです......😢
何故、人気絶頂期の漫才やったのに自殺したのか......。
それは、中田が、楽屋ではやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱えた為でした。
1979年10月25日。熱海の海岸で飛び降り自殺でした。なんと41歳。あまりにも若すぎる、早すぎる死でした(T_T)
人気絶頂の最中での突然の中田の死は、言うまでもなく多くの芸人に衝撃を与えました。
発見現場近くの展望台には漫才の台本などが入ったカバンが残されており、便箋5枚に渡る「死出の旅」という遺書には「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれていました。
告別式の時には、平川は棺の前で「なんで死んだんや!」と号泣したのだそうです。
中田は、博打と事業で儲けようとしていたようでしたが、結局は自分の意志が弱く、借金で(ヤクザに との噂も)追い詰められ最後は自決という形での最期を選んでしまいました。
芸人にトラブルはつきもの とは言うものの、あの素晴らしい漫才を永遠に失ってしまったのは、ファンにとっても、吉本興業にとっても、また彼の死を誰よりも悔やみ、悲しんでいた平川にとって痛恨の極みでした。
やすきよの横山やっさんも、タクシー運転手とのトラブルや、酒、借金など数多くのトラブルが祟って、最終的に吉本興業が解雇、漫才が二度とできなくなるところまで追い詰められた後、アルコール肝硬変で若くして亡くなったのは記憶に新しいかと思います。😢
でも、平川、中田の初代Wヤングの漫才や、やすきよ漫才は、今なお人々に愛され、大いに暖かい笑いの声を集めていることが救いだと言えるでしょう。
両者の漫才は、もはや伝説となりしも、忘れ得ない上方漫才のひとつとして、これからも多くの人々を魅了し、笑わせてくれるだろうと信じています。
⬇⬇【Wヤング 漫才】Dailymotionさんから。
【漫才】Wヤング 85年頃の「漫才ベスト10」より by レトロテレビジョン - Dailymotion
ポンポン❗ ニャンと!!😻今度は、かわいい猫ちゃんがお囃子太鼓を叩いてくれました(*^ω^*)💕
では、続いて、今夜最後の寄席でございます✨
さて、トリを飾る天下の上方漫才その④にまいりましょう。
『人生幸朗・生恵幸子』のご両人です~👏👏👏
まず、人生幸朗といえば......
そう、「ボヤキ漫才」wwwwwwwww
必ず、漫才の冒頭で「この吉本興業で唯一の明治生まれの老齢は、名前やなしに、ボヤキ~ボヤキと呼ばれております」と自らが築き上げたスタイルを紹介してまず笑いの掴みをとります。
それに、相方(妻でもある)の生恵幸子の、「しょうもない事グダグダ言うな、この油虫」「何を言うとんのや、このヨダレクリ」「いつまでボヤいとんのや、このハナクソ」と容赦のない鋭いツッコミが入ります。
幸朗・幸子の漫才スタイルは、「ボヤキ」が売りであるのと同時に、幸子のツッコミにも重きが置かれ、夫の幸朗に対してのキツいともとれるツッコミも評判になりました。
島田洋之介・今喜多代の章でも書きましたが、この幸朗・幸子も夫婦漫才の要素を含んでいますが、それはあくまで基盤に添えて、世の中の政治、経済、文化などを幸朗がボヤく「ボヤキ漫才」として周知されていました。
残念ながら、この芸風は、人生幸朗一代で終わってしまいましたが、現在ではトミーズ、大木こだま・ひびきあたりの漫才にも、些少ですがポッとボヤキっぽいフレーズが顔を出したりしているような気がしますね。(^^;)
その幸朗・幸子の漫才が流行った背景には、大器晩成型の人生幸朗が「ボヤキのおっさん」として若者を中心に人気沸騰した事にあります。
それまでは、幸朗も幸子も、早くから芸の世界に入っていましたが、幾度となくコンビを変え、漸く幸朗と幸子が出会い、それから苦節20年、やっと自身の漫才スタイルを確立、花月でもトリをつとめるまでになったのです。
さて、幸朗のボヤキは主に流行歌をターゲット(笑)にたくさんの歌の歌詞に文句をつけ、笑いを得てきました。
しかし、それにもリスクが伴わないとは言えませんでした。
一度、人気絶頂期の山口百恵の歌をステージでボヤいたところ、ファンから嫌がらせや苦情のメッセージ、時には剃刀の入った封筒などが寄せられ、幸朗はそれにビビってしまい、「オイ、もう山口百恵の歌ボヤくのやめよか...」と妻の幸子に言ったところ「何言うてンの!こんな手紙くらい何じゃい!」とまったく意に介さなかったというエピソードが残っています。
幸朗が、絶頂期の1982年に亡くなるまで、終生の恋女房であり、公私共に支えてきたのが幸子だったのですね(*´-`)💕💑
そのような事はほんの一例に過ぎず、多くのミュージシャンや歌手などは、幸朗にボヤかれて自信を持った、嬉しい、との声が多かったといいます。
ある意味、ベテラン歌手が若手ミュージシャンにリスペクトされ、楽曲をカヴァーされ、それを嬉しく感じるのと似ていますよね。
同業の漫才師だけではなく、歌手など幅広い面から支持、愛された漫才は、幸朗・幸子くらいのものではないでしょうか。
それと、もうひとつ☝ こんなエピソードもあります。
幸朗は、実は物凄い弱視の為、舞台に立っていて、持ち時間終了30秒前に番組のADが客席の最前列で「終了何秒前」とカンペを出しても読めないので、そこで幸子が客席に気づかれないよう、「泥亀!」とツッコミをいれる事で、幸朗に知らせる手段であったと言われています。
そのフレーズを用いた為、幸朗はその次に「ワガママ、勝手な事ばかりお喋り申し上げまして......」とまとめに入れたのです。
やっぱり幸子はんは、幸朗にとって恋女房だんなぁ...(*´∀`)
しかし、時折、ストレートに「いつまでしゃべってンの。もう時間やし!」と言う場合もあり、また、「泥亀!」と叫んだ幸子に対し、幸朗が「泥亀て何や!」と苦笑すると、幸子「泥亀やないの。天王寺(四天王寺のこと)境内に行ってみ、亀の池にようけいまっせ」とやりこめる時もありと、熟成された芸人だからこその常に笑いをとる姿勢を蔑ろにはしませんでした。
まさにプロ中のプロ、、幸朗・幸子の漫才は、単に「ボヤキ漫才」一言で表現できるものではなかったもう一方の面「夫婦漫才」の型も崩す事なく展開していたのが窺えます。
幸朗「責任者、出てこい~~!!」(*`Д´)ノ
幸子「どないすンのんな、出てきたら」
幸朗「謝ったら、しまいや」(笑)(笑)👏👏
幸朗が亡くなって25年後の2007年2月、幸子も83歳で幸朗の元へと旅立ってゆきました。
きっと、天国でも二人はボヤキ漫才を大いに披露している事でしょう......。
「人生のお師匠はん」は、現代日本を見て、昔以上にボヤくネタが溢れている事と思います。
「芸人は、芸に徹しなければアカン。」人生師匠のお言葉です。
⬇⬇【ぼやき漫才 人生幸朗 生恵幸子 昭和漫才の大御所登場】YouTubeさんから。
ぼやき漫才 人生幸朗 生恵幸子 昭和漫才の大御所登場 こんな時代だからこそぼやき漫才で 相互登録 コメント返し SUB4SUB - YouTube
⬇⬇【思い出の漫才コンビ ベストテン5位 人生幸朗・生恵幸子】YouTubeさんから。
思い出の漫才コンビ ベストテン 5位 人生幸朗・生江幸子 YouTube - YouTube
いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけましたか❔😆😆
初のお笑いを中心としたブログでしたが、これら昭和の漫才を通して僕が思う事は、今のお笑いには昔のに比べると、暖かみがあまり感じられない。
確かに、お笑いというものは、面白ければOK
といった部分があり、お客さんもそれを暗黙の了解として許しているところに、問題があるのではないかと思わずにはいられないのです。
最近では、お笑いや漫才を、バラエティーの中に組み込んでしまい、お笑い・漫才の核というものが、置き去りにされてしまいがちではないでしょうか。
ひとつ例を挙げてみますが、横山やすしがホストをつとめたテレビ番組があって、それに登場してきたのが、当時『ライト兄弟』という名前だった浜田雅功、松本人志(のちのダウンタウン)が披露した漫才を、やすしが酷評した事がありました。
内容は、父母に対する不満を面白おかしく言い合うといったものでしたが、それをやすしが一喝したのです。
「自分らな、新しいネタやってると思ってるやろうけど、笑いには『良質な笑いと悪質な笑い』があるねん。君らの漫才は、悪質な漫才やねん。お父さん、お母さんを貶すような、そんな漫才はすな!」
面と向かってそういう風に言われた、浜田・松本はその事を快く思わず、長らく根に持っていたようですが、ダウンタウンとして売れ出した頃には、「おぅ、お前らあの時の『ライト兄弟』か。おもろなったなァ。頑張れよ」とやすしが声を掛けたというエピソードがあります。
そのように、先輩芸人達は、暖かい心を持って若手に接していただけでなく、お客さんに対しても暖かい姿勢で、かつ常に笑いへの執着、探究を欠かさず、それでいて『良質な笑い』に徹した上方漫才の伝統を守り、繋ぎ続けてきたからこそ、今日のお笑い芸人がいて、お笑いが享楽として国民に愛されているわけです。
やすきよ漫才をもう少し敷衍するなら、やすしの起こしたタクシー運転手とのトラブルで裁判沙汰にまで発展した後、舞台に復帰した二人の漫才には、その事がネタとして使われ、客席を湧かしたといいます。
やすし=やんちゃ このネタを用いたおかげで、やすきよ漫才はもうひとつ大きく飛躍したわけです。
「やすきよの漫才は、ドキュメンタリーの面ですごく力があった。やすしが起こした事件をネタにするという事は、それはつまりドキュメンタリー、それを発揮したのはやっぱりキーボー(きよし)の力ですわ。お客さんよりまず、やすしをノセる事考えて、それから舞台に立ったというキーボーは、ほんまにスゴい相方や。そのドキュメンタリー性をネタとして使った事で二人の漫才は一番花咲いたんやと思いますわ」と言ったのは、横山プリン(きよしとコンビを組む前の、やすしの相方)。
言うなれば、やすしのやんちゃがお笑いの枠を超え、現実問題として深刻味を増していった果ての、やすきよ漫才の終焉だったというのは本当に残念なところです。
現代のお笑いが、先人の積み上げてきた『良質な笑い』『日本古来の暖かいお笑い』などを継承して、これからも国民の娯楽として多くの人の頬を緩ませてほしいものですね。
なお、今回ご紹介させていただいた漫才師の映像は、動画サイト、YouTubeでもご覧いただけますが、DVDとしても出ているので、掲載しておきます。(*^▽^*)
もひとつおまけに......やすきよ漫才の粋を堪能するなら、こちらをどうぞ(≧∀≦)🎶
横山やすしvs西川きよし[モーレツ漫才ワークス] [DVD]
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最後になりましたが、輝かしきキャリアと歴史を残し、天国に旅立って逝かれた上方漫才師の方々それぞれに、慎んで哀悼の念と、御冥福を御祈り申し上げます。🙏
今回も拙い文章のブログを、最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました🙇
それでは、さいなら~~(^○^)/ ご機嫌よろしゅう~~🎵
@2677/ 11/ 7/ 草稿